03. 説法三昧


24Fuji.jpeg1945年(昭和20年)
・8月15日、終戦。
 戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転してひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになる。
・10月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めて毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の建て直しに立ち向かう。
・戦争には反対を貫き東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかで一切批判する事無く、会員にも日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。
A級戦犯となった広田広毅元首相(玄洋社の先輩)を、巣鴨プリズンに見舞った折り、東京裁判で何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。
・436人の言論家リストなかで、一人だけパージを受けずにすむが、公開講演を大きく規制されたため、この機に弟子たちに残すための天風哲理の出筆を始める。

1947年(昭和22年)
GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、
元毎日新聞地下ホールでGHQの幹部約250人を対象に3日間の講話をする。たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え、繰り返し繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった(本サイト「不孤」参照)
・4月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。

1948年(昭和23年)
・4月、「研心抄」を出版。
・4月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。
 戦後になり天風会の会費が安くなり
一般にも解放される。

1949年(昭和24年)
・4月、「練身抄」を出版。
 一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。
・4月、「志るべ」誌、神戸で創刊し6月から東京本部で発行。

1953年(昭和28年)
・夏、「安定打坐考抄」を出版。

1955年(昭和30年)
・夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と、二千余人に近い参加者となり終戦後10年にして盛況をみる。

1956年(昭和31年)
・80歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。

1957年(昭和32年)
・7月、「天風誦句集(黒)」発行。

1958年(昭和33年)
・6月、「哲人哲語」(1948年〜55年「しるべ」誌の巻頭29編のエッセー)を出版。

1961年(昭和37年)
・2月、61年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年78歳護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。
「先天一気即霊源 無作意而行自然 人生亦此制濤中 一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。
・12月、「箴言注釈」
(改訂版「叡智のひびき」)発行1957年〜61年「しるべ」誌、31回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。

1962年(昭和38年)
・公益性が認められ「財団法人天風会」となる
・「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。
・7月、「真理践行句集(緑)」発行。

1965年(昭和41年)
・4月19日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言(「天風先生座談」、宇野千代著)。

1967年(昭和42年)
・4月、護国寺月光殿にて「神人冥合」講演を収録。

・9月、「誦句集」英語版を発行。
・8月、全国を講演に回りながら暗黙のうちに会員らにお別れが始まる。
 西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことにじきに来る死を予感する。
・「新箴言注釈」(改訂版「真理のひびき」)発行。後に日めくりカレンダーになる。

1968年(昭和43年)
・4月、会員たちの尽力で護国寺門前に天風会館が落成。
 落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って天風の2代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。
 落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。
・11月10日、創立50周年記念祝賀会を開催し、天風が総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。
 遺言ともとれるお言葉に;
「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと安武会長が差そうとも、ささるる真理の月にかわりはない」。
・11月30日、正午に英語の勉強の際、Probably Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。Thank you.」と死の直前まで勉学されこの言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。

・12月1日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前1時55分に帰霊。

 両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。
清らな美しい眼出で黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。老衰死。
「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命に教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。
・直接薫陶を受けた者は全国で百万人を数える。皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。
・12月7日、12時30分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。
 葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ祭壇の中央に「天風哲人」記され額とに遺影が置かれた。その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。
 真理を説いて50年、人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた。(「志るべ」誌、哲人追悼特別号、大井満記)

重要付記:
天風の出生が1874年5月となりますと、死亡年齢が95歳、大往生、老衰。となります。

1973年(昭和48年)帰霊5年。
・「真理瞑想録」第1巻を創刊開始。
生前40年にわたつ夏期修練会での真理瞑想行の示教を集録。

1978年(昭和53年)帰霊10年。
・「真理瞑想録」第13巻発行。1973創刊〜78年第13巻。

1988年(昭和63年)帰霊20年。
・天風会創立70周年、会員数累計百万人を越える。
・「真理瞑想録」13巻を会員向けに合本編集して出版。

・9月「成功の実現」中村天風述(日本経営合理化協会刊)が、ベストセーラとなり第二次天風ブームを巻き起きおこり、関連著書がたくさん出版される。

1994年(平成4年)に「真理瞑想録」改訂版として「運命を拓く」講談社から刊行され文庫本となる

 天風述;「諸君にいいたいのは、恵まれた幸運に、いい気になって、自己研磨を怠ってはいけない。やがて21世紀が来たら、思想的にも、アイデアに方面にも、必ずや、世界をリードするだけの権威ができると、私は確信している」
「私が三寸息絶えて、何百年の後に、世界中が、みな宇宙霊との一体の実行者に、必ずなると確信を持っている!」

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