01. 海外放浪
(サラ・ベルナール)
1908年、3月初旬、長崎から客船長崎丸に乗って上海に向かう。4月、上海にから密航でアメリカへ向けて出国。
・結核患者には出国許可が出ないため密航して上海に渡り、身分を孫文の父親の二号の子供「孫逸郎」と偽って(当時100円で戸籍を買う)、中国人になりすましてアメリカの葉巻タバコの工場長アシスタントとして上海からインド洋を経て希望岬から大西洋を横断してアメリカ大陸へ渡る。
・6月、93日間をかけてアメリカ東部ニューヨークに到着。吉沢公使を頼る。
・9月、ペンシルバニア州、フェロドフィアにあるモーション・モチーブの健康法に出席するも全く得るものもなく期待外れとなる。
・11月、やっとの事で当時アメリカで随一と言われた待望のスエッド・マーデンとの面会が叶い訪ねる。この30代の青年哲学者は、自分の著書を何度読んだかを尋ね「10回」と答えると「百万回読め真理を知らずして死ぬよりも、一歩でも近づいて死ぬは幸いなり」と、言うだけで全く得るものがなく落胆する。
・エジソンの神経病を治療した哲学者で「How to live」の著者、カーリントン博士を訪ねても「人生の真理を求める心が尊い、あ〜尊い、尊い」と、体よくあしらわれここでも得るものがなかった。
・渡航費も使い果たし「腹の空いた痩せ犬が、道端をほっつき歩いているようなものだった」。
・当時のお金で5万円をもって渡米するも半年で使い終わる。当時の1万円は家政婦を1人使い銀行の利子で過ごせた時代。お米一升三銭。
・生活費と旅費を稼ぐため吉沢公使(後に大使)の紹介で、広東省の富豪で愛人3人を連れて豪華ホテルで暮らしていた華僑留学生の李宗順(後に香港で開業)の通訳と、コロンビア大学の耳鼻咽喉科の授業を代行して医師免許を取得する。このアルバイトを8ヶ月ほどして8千ドルと謝礼8千ドルをもらいヨーロッパ渡航の旅費にあてる。
・同時に孫逸郎の名でニューヨークのコロンビア大学の基礎医学部で、免疫系と自律神経系統の短期講習を受講。
・医学の知識は習得できたが、先進医学のアメリカでも結核に対して治療方法がなく、また哲学的にも得るものがなく絶望の縁に突き落とされる。
1909年8月、アメリカをたってヨーローパに向う。アメリカに約1年2ヶ月滞在。
・日本商社の人に医学や哲学を希求するなら英国に行くことを勧められ、その紹介で大西洋の嵐に遭いながら英国に渡る。体重は50キロと痩せ衰え旅行のトランクが持ち上がらぬ状態でやっとのことロンドンにたどり着く。
・ロンドンでアデント・ブリュース博士の講座「神経系統と精神活動」を2週間受講する。受講最終日に治る秘訣を教えるとのことだったが、「健康な体でなければ心は強くなれない」、「病いを治す秘訣は病いを忘れること」( Foget it.This is only this.)というだけであった。
「忘れ方を教えずに、どのように忘れられるか」と質しても、アジアの後進民族に私の高尚な哲学など解らぬと軽蔑されるだけで、ここでもまた得るものがなく、その後さらにドバー海峡を渡りベルギーに、そしてフランスに行く。
・ロンドンの日本クラブで新聞を読んでいる時に知り合った、医師である木村総三氏を紹介で、19世紀フランス演劇で最も有名な舞台女優サラ・ベルナール(ユダヤ人、1844−1923)を、訪ね6ヶ月屋敷に寄宿。
当時ベルナールは68歳でしたが、娘のように若く24〜25歳くらいにしか見えないことに驚く。若さの秘密は「日に一度赤子の心に戻る事」(65歳の時「ジャンウ・ダルクの裁判」の劇中で、裁判官に歳を尋ねられた時に、おもむろに観客の方に目をやって「19歳です」と答える場面で観客席から一斉に大きな歓声が拍手喝采が湧き上がった)。
「女優に歳は無い」と娘のように若く、天風が巡り逢った中で、サラ・ベルナールとハルピンのお春の2人を絶世の美人と讃え、こんな聡明な女性と会ったのはこれまでに一人だけと懐述。
ルイ二世の宮殿であったベルナールの屋敷に360数名の女優が寄宿し、食事の時に女優たちが実に楽しそうに笑いながら食べるのに驚き、後にこれが天風会の食事時に3回「笑え」につながって行く。(杉山彦一講義「真実への希求」)
・初めててルノーの車を運転する。
・心理学者でもあったベルナールの紹介で、リオン大学のリンドラ心理学博士に会い「鏡による暗示法」の指導を受ける。
・5月1日、ベルナールの紹介でドイツに赴き、ベルリンでアインシュタインの高弟でキンネット博士の講演を3ヶ月聞く。
ヨーロッパでは医学の研究もしており水療養やドロ応用医療を学んでいる。
当時世界で最高の権威であったベルリン大学で「生気論」の教鞭をとっていた哲学者ハンス・ドリュース博士を訪ねる。
小柄で歳をました博士は、天風の質問に目を閉じたまま耳を傾けた後、おもむろに「君の希求しているものは世界古来からの謎であり、心というものは絶対に人間の自由にならない。それは海の魚を森に求めるに等しい」「求めて探りだせれば自分だけの喜びでなく、人類を幸福にできる喜びとなる。ともに求めて行こう」と断言される。
ドリュー博士とは1926年に訪日した時に再開しており、これが縁でドイツの博士号を授与したと語っている。
・スイスにも立ち寄り「お金がなくて外国なんぞ行くもんじゃないですよ。お金がなくても親切にしてくれたのはスイスだけだもん」と述べている。
・こうして欧米2年間の精神遍歴は回答を得られぬまま暗礁に乗り上げて絶望となる。
全てを諦め絶望の時、急に母の顔と日本が懐かしく恋しく浮かんできてもう居ても立ってもいられなくなり、「えいくそ、面倒くせい、日本まで行けなきゃ、途中で海の中へ飛び込んで死んだって解決つくわ」と、日本へ死に逝く帰国を決心する。ヨーロッパ滞在10ヶ月。
・1910年5月25日、「日本に帰ろう。母のもとに帰ろう。そしてわが家で死のう」と、ベルナールの留意も断り小雨そぼふるほの暗いマルセーユの港を、絶望の唾を吐き捨てるように失意と自嘲のうちに離れる。
・ベルナールの従兄が船長を務める3つの客室のあるペナン行きのフランスの貨物船に乗り込み地中海をゆっくりと南下。
天風は客室から出る事も無く絶望のどん底。それこそ活きる屍が船底に寝たままスエズ運河へ向かう途中、イタリアの軍艦が運河で座礁して不通となり急遽迂回してエジプトの最大の港クレオパトラの街として有名なアレキサンドリア港に5日間の臨時寄港となり、そこに錨を下ろして停泊にカイロまで小舟で行く。
・6月8日、ピラミッド観光のため朝2時30分に起床するが、3時に激しい喀血となりホテルで横になる。4時頃にホテルのボーイに起こされ無理やりに抱かれるようにして食堂に連れて行かれる。
そこでモロヘーヤ(青葉スープ)を無理して喉に流し込んでいる時、偶然に客として居合わせた60歳前後と見受けられる老人(当時106歳ともいわれる)カルマ・ヨガの聖者カリアッパ師と( Colliyaha、インド南方のペプチア人)生涯最大の師と運命的な出会いとなる。
「お前はまだ死ぬ運命ではない。私について来なさい」、"You can save yourself.You had better follow me."の言葉に、わかりました "Certainly."と応えて従う。この状況は天風師が講演の時にいつも涙ながらに話しています。
・6月9日、早朝に出発。ヨーガの里ゴーゲ村まで95日。
スエズ運河、紅海、アラビア海を、ヨットで従者2人を含めた4名で、途中名だる港に2、3泊しながら6月下旬にカラチに入港。
・カラチでヨットを降り10数頭のラクダの曳船に乗り換え、インダス川を6日間かけ約250キロほど北上。さらにラクダの背に乗り、広大なインダスタン平野を越え遥かヒマラヤの東端カンチェンジュンガの麓に在るヨーガの里ゴーゲ村に向かう。
「私がついているから心配ない」との師の言葉を頼りに95日間の長旅であった。
・当時の病状は、毎日発熱、息切れ、脈切れ、そして7日〜10日に一回の喀血の状態。
・9月中旬、ゴーケ村(Gorkay)にたどり着く。
カースト制度により奴隷(スードラ)の身分として修行に入る。始めの2ヶ月間は心の垢を洗い落とし赤子ような心になるための準備期間となる。
・食事は稗が主食で野菜と果物。10貫目(37キロ)の体重を養生するために菜食の食事の改善を要求しても、草食の大像の例えをとり相手にされず。しかし、食事の改善がなくも6ヶ月後には15貫目(56キロ)に回復してゆく。
・11月7日(満月)、修行の第一歩としてメハム川(Meham)で朝の打坐が始まる。肉体に受ける感覚から心を解放する制感の行。
・12月、朝の打座と昼から山中での瞑想が始まる。6キロの山路を11キロの重い石を背負わせて滝壺のすぐ近くで瞑想行。
・フランスでサラ・ベルナールの薦めで読んだ、「イマヌエル・カントの自叙伝」が、瞑想中に「もう一人の自分」が浮かんできて「たとえ身に病いがあっても、心まで悩ますまい」の悟り至り師から悟(ギャバティ)ったことを知らされる。
1月、早朝から1日中、華厳の滝の三倍くらい大きな滝壺近くの大理石の岩の上に打坐し瞑想行がはじまる。
・師からこれまでの呼吸法である、丹田とか、腹式とか、意識を限定した呼吸法をすれば、効果も限定とされるからと修正され、完全呼吸法(プラナヤマ法)を自分で悟れと言われる。
・言葉(マントラ)の大切さ教えられ、不平不満の更正。
「こっちを見れば綺麗な花園なのに、お前は墓場の方ばかり見ている」と、心の置きどころを習う。
・夜叉(マナ)について暗示の重要さを教えられる。
・小犬の傷口の自然治癒から生きる道を悟らされる。
・世界一の幸福者。生かされている事に先ず感謝せよと説く。
・初めての命題「この世になにしに来たのか?」を与えられ、「進化と向上」と答える。
・虎、蛇、ツタ、リスの故事を話し、生死の問題を説き、死に対する恐怖から解放。
・「聖なる体勢」(Kumvaphacca)クンバハカの習得する。このあたりの状況は大井満著「ヨーガに起きる」(春秋社刊)を参考。
・満月を眺めさせてアサナ法と一心集中を教えられる。
・「地の声」の命題に1ヶ月、その後に「天の声」の命題の悟りに4ヶ月かける。
・黒豹に膝をなめられた時に「聖なる体勢」無邪気を悟る。
・ヨギの集会場に入る事を初めて許される。
10年ぶりに熱帯原始林の奧山からゴーゲ村に帰ったヨギの8日間の臨死から復活という神秘体験の行を見せられた後、クンバハカの命題を与えられる。(この神秘体験には30年の修行が必要、カリッパ師も2度この行をしているとされる)。
・修行中に非常に大きな地震があり、師から「アリの穴の中に入るべし」と言われ、アリの穴を探している間に恐怖がやんでしまう。いざという時に、心を絶対的に虚にして気を平にすれば何も恐るものなしと悟る。
・「地の声」の命題と、1ヶ月後に「天の声」の命題の悟りに4ヶ月かける。
・瞑想中に獰猛な黒豹に膝をなめられた時に、何の恐怖も涌く事なく「聖なる体制」無邪気を悟る。
・3月、1年3ヶ月+3ヶ月の修行で悟に至りる。師が指導したヨギの中で最速での悟り。
・4月、カリアッパ師より「オーラビンダー(天の心を自己の心にする人)」覚者の聖名をいただき修行を終えてゴーゲ村を離れる。
・師は片手を天風の肩に置き、「もし困ったことでも起これば、私の代わりに『もう一人のお前』が、それを解決してくれる。けして寂しがることはない」と優しく伝える。
・師と別れの際は「哭いたよ、声をあげて哭いたよ」という。
一説にカリアッパ師はカルカッタで天風を送った後、ゴーゲ村に戻ることなく行方知らずという。
上海で密航が時効になるのを待って日本に帰国予定。
1912年
・1911年12月25日、上海で当時中国大使で玄洋社の先輩であった山座円次郎大使と偶然に再会。翌年1月に上海滞在中の頭山翁と再会。
1913年5月下旬、山座大使の要請で孫文を助けて第二次辛亥革命に最高政務顧問として革命に参加。
7月、孫文を補佐して南京から北京へ行くのに尽力し紫禁城で約2ヶ月間滞在。紫禁城では美女に囲まれて王候以上の贅沢三昧の生活を味わう。
・北京の理髪店の二階で天風が同席した孫文、頭山との会合で時に飴売りの刺客が襲う。
・上海でも頭山翁との席で刺客に襲われて、左中指の先を骨まで切られて、英国の医師が銀の針金を入れて縫い合わせるが、その後は神経が切れたまま曲がらなくなる。(京都支部編「哲人中村天風」)
・7月下旬、袁世凱に対し武装蜂起するが、第二次辛亥革命は挫折。孫文は失脚して8月9日〜16日まで日本へ立ち寄った後アメリカに向かう。
天風も頭山満の命で孫文の護衛として台湾に逃れて上陸。台湾にしばらく逗留し8月9日に神戸に帰国。孫文から譲られた革命の軍資金の一部を(今の換算で20億円ほど)を日本に持ち帰る。
・船上からおそらく二度と見ることなど夢にも思っていなかった「霊峰の富士山を見た時には、泣けて泣けて仕方がなかった」と回想。
・帰国から半年間は、中国人として神戸舞子の八角堂(移情閣)で過ごす。久々の日本を中国人「孫逸郎」として近くの遊郭にでかけて楽しい時を過ごす。
1914年1月頃、海路で東京に戻る。翌年の
1915年−17年(大正4年−6年)39歳〜41歳。実業界に転進。
・晴れて中村三郎となり先ずは頭山満家に挨拶に行く。
頭山夫婦は紋付着物で迎え、上座に座らさせて翁は「あなたは選ばれた人じゃ。キリストは悟りたいために五か年、釈迦は六年、マホメットが七年、その間どこに行ってたかわからなかった。それで全く見違えるような立派な人間になってあらわれた。あなたは自分自身をつくりかえて帰ってこられた。これは深い天の思し召しがあると思わなけりゃならん。『天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ずまずその志を苦しめる』まさにあなたがそのとうり。これからのあなたは、あなたの人生を生きるのではない。人の世のために生きるために、あなたは生まれ変わられた。おわかりになったか」と諭す。
・一時は時事新報社に勤める。
・関西財界の巨頭、平賀敏氏から第百銀行の池田氏を紹介され、彼の推薦で東京実業貯蔵銀行の頭取となる。伊豆電燈株式会社社長、その他にもいくつかの会社を経営して実業界で活躍する。
・花柳界で「なァさん」と呼ばれ、芸者遊びに派手にふるまい、本宅以外にも別宅を6軒ほど持ち「金を湯水のように遣う人はいるが、金を播くよに遣うのは天風さんくらい」という放蕩三昧。
・しかし潜在意識下で天風統一道の体系化の潜伏期間で、芸者と箱根に行き小用に立った便所の窓から満月を眺めていて、ふと「これでは行けない」と奮い立ち、芸者を置いたまま戻り修養に入るが、数日するとまた芸者遊びを繰り返したりしている。
こうしているうちに遊び仲間に話しを始めると、何時しか自然に人々が集まってしまうことや健康相談がよく持ち込まれてくるようになり、統一道がだんだんに結晶化されてくる。
1918年(大正7年)
・春、頭山の依頼で茨城県の平炭坑の労働争議を鎮定。
・全国的にひろがった米騒動を先頭にたって解決。
・猛獣使いのイタリアのコーンが頭山を訪ね、頭山翁と天風の顔を見て「この二人は猛獣の檻に入っても、猛獣はなにもしない」と話す。コーンが有楽座でショーをやる際、頭山翁と一緒に招かれた際に、まだ馴らされていない野性の三匹の虎の檻に入ると、天風の回りに2匹がうずくまり1匹がその後で写真を撮影(時事新聞)。これはその人の発する「霊的作用の感化」である。
・頭山翁は天風と二人の時に、座席を改め天風に座らせて、「世の為、人の為に、汝は立つべし」と勧められる。それ以降、頭山翁は人前では「中村先生」と呼ぶようになる。
「天っ風のごとくである。天風と名乗れ」とし。以後は天風と名乗り始める。
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