12. 安定打坐法
(ヒマラヤ山脈の麓 ヨーガの里)
安定打坐法
昭和31年、京都夏期修練会(抜粋要約)
安定打坐法とは率直に言えば「天風式坐禅法」と言うのです。
坐禅というのは何だと言えば、やさしく結論してしまえば、心鏡を払拭して煩悩を解脱せしめて悟りを開くというのが目的です。この「心鏡払拭」が、坐禅では非常に難しいと考えられているんだ。これは難しく教えるから難しくなるのであって、特に宗教家の説く坐禅というのは、一番会得困難なポイントが一つある。それはなんだというと、坐禅の一番大事とする三昧境ということがはっきりつかめないのです。
初心の間は、それを説く人もたいていの人は、三昧境を一心の境と呼んでいるんですが、しかし厳密に言うと、一心の境が三昧境でなく、一心の境は三昧境に達する道筋なんです。では三昧境とは何だと言うと、天風会のいう「霊的境地」です。だから坐禅の目的は、心を霊的境地に入れる特別な修行と考えていいんだ。
そこで心が霊的境地に入ればどうなるかというと、宇宙の根本主体と人間の生命とが一体になるということ。そして一体になれば宇宙本体がもつ限ない叡智が、人間の心の中に受け入れられるということになる。安定打坐というのは、心に特殊な方法を行わせてきわめて簡単に坐禅の教義の中で一番難しいと言われている三昧の境地に入れさせる方法なんです。
そこでこの方法を教える前に、一度ぜひ理解しておかねばならないことが一つあるから、そいつを一応説明します。
元来、この人間というものは、その本性においては宇宙の根本主体と一体になるものですよ。宇宙本体の心の中にある無限的な叡智というものが、我々の命の中へ流れ込んで来るように自然にできているのです。
そこでどうすれば一体となれるかというと、これは昔の坐禅を人の言葉の中に無いのですが、これは私が苦心した結果、発見したもので、心をトランスの状態にすればいいわけです。トランスとは何だというと無念無想の状態になることです。「無念無想、いゃそいつは難しい」と、たいていの人は言うのですが、 それは結局、無念無想という状態を正しく理解していないからなんです。なかには無念無想というのは、何かこう夢幻のような、混沌模糊たる精神状態のように考えるという滑稽な人もおります。そこで無念無想とは、わかりやすく言うと、心が生命の一切を考えない時のことを言うのです。もっとわかりやすく言えば、心が肉体のことを考えず、また、さらに心が心の動きを思わない時、よろしいか、それが無念無想。わかったでしょう。
しかし、これが普通の場合なかなか普通の人にはわからないんですが、とにかく心を無念無想の状況にするともう黙っていても、すぐさま宇宙本体と人間との生命はパッと密接的に合流してしまう。心が即座に霊的境地に入るがためなんです。
人間の心の動きは「本能境地」、「理性境地」、「霊性境地」と、三つに分かれていて、霊的境地というのは宇宙の一切を創る根本要素である。この宇宙本体の生命の中にある霊気の実在するところ、宗教的に言えば、神、仏のいますところといえます。
しかし、この霊的境地が特別なところに用意されていると考えちゃだめです。我々が打坐している目の前にあるんだから、かぎりなく遍満存在している。この我々の住んでいる大気の中にあるんだ。しかし、我々の心に煩悩、雑念妄念というようなものがあるとその中へこちらの命が入っていかない。
こう言うのが一番いいかな、自分という本体は霊という一つの気体で、心と肉体とはその道具だと教えたね、そして心は霊という気体の働きを行う道具で、肉体はその心の働きを表現する道具だと教えられた。だから心が肉体を思わず、また心の働きを思わない時は、生命全体、命の全体が、当然この我の本体である気体を通じて、宇宙創造の根本主体の中に帰納するように自然にできているのです。
さてそこで、この霊的境地にす〜と入るという方法をお教えする。
いま諸君の耳にブザーの音が聞こえる時、耳がその音に引かれている時が無念無想ではではなく、さっきも一心の境とは三昧の境でなく、三昧の境に入る道筋だと言ったね。その一心の境、そしてブザーの音がサッと消えた時だ、その瞬間が無念無想なんだ。
心が肉体を思わず、心の働きを思わない。しかし、人によっては瞬時に終わってしまうが、2秒、3秒、5秒、時によると、1分、2分もその境地でいられるようになってくる。最初はどうもとかく音が絶えたシ〜ンとした世界にせっかく入っても、すぐに耳に他の音が響いたりしてきたり、体に何かの感覚が来ると、すぐに雑念妄念が入ってくる。目の方はこうやって修行している時だけは、ふさいでいるから目にふれるものはないから、目からの誘惑はないけど、しかし、本当の事を言うと、安定打坐というものは、仕舞いには目をふさいで、こうやって黙然と坐ってやるんではないんですよ。起きていて生活の中にたずさわりながら、心をフッと霊的境地に持って行けるようにならなきゃいけないんだから。
まぁとにかく、ブザーの音の絶えた時の無念無想の境涯を味わってみよう、、、
ブザーの音----------------------------------------------------
この時、諸君の耳はブザーの音に引きつけられているだろう、、、、
ブザーの音が、いま絶えるょーーーーーーーーーーーーーー1
音が絶えた刹那だ、
どうだい、この静かなる世界。初めのうちはなかなか長くもてません。
この静かな世界こそ、無声の境涯で、ここに心がす〜とした時わだ、さっきも言った通り心は肉体を思わず、またさらに心は心の働きを考えない時なのだ。
要するに特別境涯に心が置かれた時に、す〜と宇宙本体の生命の中へ、あなた方の生命が引きつられるように入ってしまうというが、いいかな、主観的な方から言ったら「飛び込んで行く」という言葉で言ってもいい、、さぁ、もういっぺん味わってごらん、、、、、
ブザーの音--------20秒----------------------------------------
いいかい、いま音が絶えるぞーーーーーブザー音10秒----------1
どうだ、この要するにこの世界、、、、
この世界に本来からいったら、どんな場合にでもフッと切り換えられて、置き換えられるようになれば、もう立派な人間に、いわゆる、出来た人間になったわけだ。
そしてなんぞはからん、その時に宇宙本体と人間の生命がピタリと結び合わされた時だから、したがって宇宙本体の持つ万能の力が我々の生命のなかにも分量多く分ち与えられる時なんだ。
だから今後とても何か非常に名案工夫を必要とする時とか、あるいは心に迷いが生じた時、これはしょっちゅうあるだろうから、病いや運命が良くない状態が襲ってくる場合に、必ずそりゃもう凡夫凡俗という者は雑念妄念の虜になる。そんな時に、これは当たり前だというような考え方を今まで通りしておるとだ、しまいには死んでしまうという馬鹿なことになってしまう。運命だってその通りだよ。
そういう時に心がフッと無念無想になれば、まぁ早く言えば、打ち込んで来る相手の太刀を、フッと気をかわしていなしたのと同じなんだ。どうですこういう極めて簡単明瞭な方法で、要するに命を襲う敵ともいうべき病いや不運というものから、安全な所へ自分の生命を移しかえる事ができるということを、今まであなた方は知らなかっただろう。これを坐禅の方に行って習おうとすると、10年、20年、人によれば一生かかっても駄目かも知れん。
もちろん私はこういう方法でもって修行したんでない。ブザーのような簡単なものでなくて、千年も万年も落ちているであろう瀧のわきに行って坐らされ、瀧の音だからどんな場合があってもブザーの音のように中断せしめることができない。もうゴーゴーと耳を聾せんばかり、それをとにかく、毎日、毎日、朝から夕方までそこに坐っていたんだから、最初はその音に心が引きつけられて、もう何も他の音が聞こえないくらいうるさい、そして雑念妄念が雲のごとくわいてくるが、次第に不思議な事にはその音に心が一心されてくると、音なき世界と紙一重のところになるから、そうすると、1ヶ月、2ヶ月ではなれなかったけれど、半年、8ヶ月とたつ間に、ふと、その後から気がついてみると、この瀧の音と自分の心が離れている時があるんだな。離れている時というのはつまり瀧の音がしているけど、耳がこれに関係しないかかわり合っていない、それで何も考えない無念無想の境涯に入っている瞬間を何べんも味わえるようになり、仕舞いには朝から晩まで、まさに確かに瀧壷のわきに坐っていたんだが、時によると30分、1時間くらいは、瀧の音の中にいながら瀧の音から離れて、心がジーッと空の世界に置かれている時の方が長くなったというふうになってきた。
もちろん自分では気がつかないけど、先生から、「だいぶ出来てきたな〜」と言われたんで、ハッと気がついたんだ。言われた当座は、やっぱり言われたためか、今度はそうなろうとする努力のため、また元の木阿弥にたち帰ろうとする傾向があったんですが、まぁ習は性、毎日、毎日の練習というのは、自然と天性になってきて、何時でも瞬時にパッと、心を霊的境地に置き換えることが出来るようになった。
それからはもう早いもので50年近い歳月がたっていますが、お陰というか有り難いもので、それから後というものは、まぁ何べんかそりゃこんな身体ですから、医者が首を傾けるような病いにいくどか冒された、あなた方はインドから帰って来てから、現在あるかの如き頑健、鉄の如き身体になったと思ったら大間違いなんだ。こうなるまでには5年に一ぺん、6年に一ぺん、医者が首を傾けるような病いに冒されたことがあるんですよ。何しろ肺に故障があって、いわゆる完全無欠ではない身体だから。
けれどもその時だ、有り難いことだな〜、フッと心が病いから離れて、無念無想の境地に入ることが出来た。別にそうしようと思わなくとも自然にそうなり得たのは修行のおかげだ。
だからこんな不思議な身体の人は無いと医者から何べんも言われるくらい、いつもスルッ、スルッとこの危ない瀬戸際から体をかわして今日まできている。考えてみるとそれは健康的な事ばかりでなく、運命の方だってしょっちゅう、もう随分と危ない瀬戸際に立たされていながら、本然の自覚というものは、こういうふうに心を使う習慣から別に意識しなくても危ないところで、何時でもスースーと、体をかわしてくれたんだな。
また、諸君にこうやってお話をする際でも、別にものを考えてしゃべるわけでもない、参考のために本やなんかを読むものの、いざとなりゃもう瞬間、瞬間に、私の頭の中から出てくるインスピレーション、そのインスピレーションというのは、心が空になった時にスーッと出てくるんだな。
とにかく人間というものは、変化と変転の中で活きている。その変化と変転にいちいちかかわり合っていたら、そりゃ〜もういくらがんばっても長生きできようはずがない。いたずらに心に無駄な荷物を背負わせていることになる。だから理屈抜きに心というものを無声の境涯に、いわゆる無念無想にする事。宇宙本体と合体すれば、もう大きな収穫が得られる。
簡単に考えてもそうだろう。「疲れたら休め」という言葉がある通り、肉体だって疲れたら休まなければ元の力がでてこない。心もまた然り。絶えず何事かを思わせ考えさせていたら、心は疲れてしまう。だからこのブザーの音の絶えた無声の境涯、すなわち霊的境地こそは、心の旅路のオアシスだと思っていいわけだ。ヒョイヒョイと心を休めてやる。だから1日に何べんでも休めたっていいわけだ。心ばかりは肉体と違って、肉体はもう面倒くさいから動かずにいようと自分の意識でもって運動を止めることが出来きますが、心の方は運動を止めようと思っても止まらない。心は能動的なもんだから、絶えず何かを考えようとする傾向をもっているから、どんな不精な者でも肉体運動とはわけが違う。だから時々フッ、フッと無声の境地へ心を移してやり、精神生命の疲労を防いで神経系統の生活機能を休めてやることだ。命を保つためにいろいろの作用を行っている神経系統が疲れずに働いてくれたら、求めなくも丈夫になるのは火を見るよりあ きらかだろう。
さぁそれがわかったら、今後、折ある毎に、時ある毎に、目を開いていても出来るように安定打坐を練習しましょう。さぁ、そこで参考のために安定打坐の歌を覚えなさいよ、
「安定の打坐密法の真諦は 心耳を澄まし 空の声きく」
心耳を澄まし空の声きく、空の声とは無声の境地、霊的境地で、空の声を聞こうとする時に、無念無想になれるわけだ。もう一つ、
「心をば、虚空の外に置き換えて 五感気にすな 打坐の妙法」
いいかい「心をば虚空の外に置きかえて」、虚空の外というのは、何も遠い天の高い所でないんだよ、目の前にあるんだ。空虚というのはいろいろの雑音や、いろいろ響きのある中に、この虚空というものがあるんだ。音無き世界、ここに心を置きかえて、五感気にすな、断然五感を気にしては駄目だぞ。耳に気をとられたり、身体に感じるものに気をとられると、安定打坐の目的が頭から無意味になる。それで五感を気にしないということは、音も聞くな、感覚をとらえるなということでなく、それにかかわり合いをつけないで、心はもうただ無声の境涯に置くということだ。五感気にすな打坐の妙法で、もう一つの方は、
「心をば 静かに澄ます 空の空」
これは一番よくわかるな。静かに心を澄まして、空の空へもって行くことだ。
この3つの歌のどれでも覚えていれば、必ず「ハッ」と思う時に、即座にスーと心を置きかえることが出来るだろう。そして心をいつも刹那に置きかえる人間になれば、もう立派な自己統御の根本が創られたことになるんだから。それからの人生は、安心立命の境涯が求めずして来るという、誠にめぐまれた幸福な人間になれるんだから、そこが修行だね。
一意専心、実践を忘れてはいけない。修行を怠る人にかぎって病いや運命のよくない場合に、すぐにへこたれてしまう。昔の兵法にも、「兵を養うは1日のためにあり。いざ鎌倉の時のために、永い月日をかかっても兵を練るんだ」と、いった言葉こそ誠に尊い。
変化変転のきまわりない人生、油断も隙もできないような人生に活きているお互いが、本当にうまく生命の安全を保って行く秘訣はだ、消極的なかかわり合いをしないことだ。
病いでも運命でも、そいつをいきなり相手にして取り組もうとするとすぐ組しかれてしまう。そういう時に、そういうものを考えないで、心を他の全然かかわり合いのない方面へやってしまえばいい。負けるのを承知で取り組んでから放り出されるよりも、柳に風と受け流して、相手にしない方がはるかに安全だということを悟らなければ、それが正しい自覚なんだから。
え〜、いくら言っても尽きないほど安定打坐の説明がありますが、ここから先はご自分でおやんなさいな。
それでは、一生懸命やるんですよ。
神人冥合 #13 #14 中村天風 (天風会のCD神人冥合より)
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