15. 終戦玉音放送録音盤秘話
終戦玉音放送録音盤秘話
(昭和35年8月13日 神戸修練会)
誰もがいまだに知っていない大きな事実が、日本のしかも宮城(皇居)の中で起こったのであります。
人びとの多くは今日まで、五一五事件だとか、二二六事件などということは、あまたの報道人が詳細漏らさず報道している関係で、たいていの人が知っています。けれども昭和20年8月14日の夜中に起こった大きな事件は、全く知る人の極めて少ないのであります。
そうしてしかも、世の中に伝えられている事実は、表面のある一部の事柄だけで、実際的な一番大切な方面の事は誰も知らないがために、知らない事はなにも報道されずにいるものです。誰も知らない事を知っているのは、私一人なのであります。
もっとも私一人だと言ってるものの、その事実を目の前で見ないで噂に聞いて、その相手が私だとわかって私の会に縁故を求めて入会した人があるのは、神戸の昨年の修練会でご承知の通りです。元の近衛兵の歩兵連隊の一軍曹が、あの騒動のあった後に、相当えらい騒動を止めた人が、たった一人の偉い男がいて、その人が命がけで騒動を止めたそうだ。その騒動を止めた人は、中村天風という人で、なんでも玄洋社の人間で、非常に理念の強い人だと近衛の戦が終えた後の師団の噂になつていた。
それで私の名前を知っていた軍曹が、その後になんの気なしに新聞を見たら、大阪で修練会を中村天風というのがやっているというのを見て、いても立ってもたまらずに昨年の大阪の修練会に入会して、引き続き神戸まで来て、その人に会って、その話しを聞いた人もだいぶいると思う。
手をあげてごらん。ほらだいぶいます。その人はしかし、事実をその場面にいたのではなく、後から兵隊たちの噂で聞いたんで、その噂の出たのも、おそらくこれから私が話す話の中で現れた人間の口からまたそれへと、耳から口へ、口から耳へと伝えられた言葉であろうと思います。
さて、私はこの大東亜戦争に対し、昭和16年12月8日、真珠湾を日本軍が大挙して攻撃し、太平洋アメリカ艦隊を全滅させたと喜んだあの時から、なんともいい知れない寂しい気持ちで、東條総理に対して万風の反対の意見を持っておったのであります。
それがためにあの戦争の終える日まで、人にはいい知れない弾圧と迫害を受け通うしでした。私が演台に立つ時には、必ず私服の憲兵が二人三人が常につきまとっておりました。しかし、講習会の時でも、不合理でけして正義でもない、たとえ国を挙げて戦っていても、この戦いというものは「公」でなく、歴史にけして名誉な戦いではない。一日も早くこういう戦いは止めるべきで、止めなければ、続ければ続けるほど仕舞いには国家の社稷を危うくする、かくべからざる日本の大きな、時によれば日本という国が潰れるかも知れぬと、折りあるごとに、時あるごとに、言つていたのであります。
それがために、いま申し上げた通り、非常な迫害と弾圧を受けたので、とうとう昭和20年3月になんと私の家だけ、あの横領な陸軍の手によって特別強制疎開という命令を下して、たたき壊されてしまったのです。つまり、私は家がなくなったらば、もういくらなんぼなんでもギャーギャー言わないだろう。しかもあの当時、戦争に反対した者は、私の恩師、頭山満翁と私の国家的な仕事の上で、義弟のうえ親友のようにかわいがっておりました中野正剛という男でありました。その中野正剛は東条英機の弾圧によって腹を切つてしまいました。
その腹を切らざべからざる運命に切羽詰まらせられたのは、議会が開かれている間は代議士は法以上の制裁を加える事はできませんが、議会は終ったら何かにひっからめて監獄に叩き込んでじゃって、いい折りあったらば銃殺に処しようと、それを中野が知つてますから議会の開会中に腹を切って死んじゃったんです。
ところが、私を縛ることができないのは、私は大正15年から皇族講演の講師を拝命していましたので、私の体には天皇の勅令がないと指一本触れる事ができないのであります。それでいて、そのできない人間が戦争は罪悪だ、不合理である、不正義だと言って歩いているのですから、いわばもう憲兵隊のもと荒らしに見られちゃった。それでやるに事かいて私の体に縄をつける事ができないものですから、私の家を特別強制疎開、日本始まっては以来、特別強制疎開というのは私の家だけだそうです。軍人が来てたたき壊してしまつたんです。
しかし、ありがたい事には、私の体に縄をつけることができない、特別なとにかく私は皇族講演という身分を持っておりますために、今の明治制令軍事になっております管侍従次長の供へで、当分の間、皇居の中で生活したらどうだろうかという御状が下ったのであります。
誠にこれは有り難いとも、何とも言えない仰せでありまして、喜んで私は享諾して家族は茨城県の布川に疎開せしめて、私は宮城内の甘露侍従次長の官舎近くに寝起きする事になったのであります。これにはもう憲兵隊の指令が手をつける事ができません、宮城の中ですから。
そうしてできるだけの努力をして、一日も早くこの戦争を終わらせたいと思いまして、この点は私一人知る事実でありますが、もうすでに1月に第一回の御前会議があった時に、陛下のおぼし召しはこの戦争を止めたいご意向であったのであります。
3月の第二回、御前会議の時に止めてしまっていると、樺太も朝鮮半島も、台湾も、沖縄はもちろん、そのままで、しかも、シベリア大洋の漁業権はそのまま持っていてよろしい、満州は十年の保留期限として、日本の思うよう独立国としてやろう。そうして関東以上の漁業権は、今まで通り日本が持つていてよろしい。これで講和談判を締結したらいいだろうというのが各国の意向で、特にドイツ大使が途中調停の労をとることになって、これで陛下もけりをつけようとおぼし召したのであります。
やみくもにけりがついていたら、その後の日本は今とはうって変った、最と幸福なものになったでしょうけれど、なにはさて、その当時は「軍人にあらざれば人間にあらず」と思い上がっていて、特に陸軍の仲間がその有利な条件に対して、かくも頭から絶対反対をしたのであります。その反対する理由が、極めてなんとも取るに足りない理由としていたのであります。これに講和してしまったら、いままで南方で働いて命を亡くした軍人たちの霊がうかばれないと、こう言う。
これでは日本が勝ったことにならない。どうやら負けない程度でもって講和談判したのでは、日本のうだつが上がるのかと言い、第一に軍人としての名誉が気損じられると、要もない意地を張ったんです。それで折角の陛下のおぼし召しを、軍人の郷土的なコンプレックスでもって、お気の毒にも陛下の高遠が、その時はしりぞけたのであります。
しかし思ってみると、かえすがえすもあの3月の御前会議の宮中調停があのまま現実化したら、お互いにもっと、もっと幸福な現在を送られているかも知れない。今のような日本国というのは名ばかりで、政治家も、あるいは教育家もすべて、日本の政治家でもなく、日本の教育家でもなく、旧主の手先となり、ロシアの手先となり、アメリカの手先にならなきゃあ、この国の要するに上流者としての生活ができないという、みじめな運命は来なかったに違いないが、なにやかて、やっぱり体勢のおもむくところ、止むに止まれず、3月の調停が出来なかったために、ひき続き5月の御前会議に陛下は、断固としたご決意でもうどうしても戦はやめろと。
そうすると陸軍の方がどうしてもその気がない。いつも理由は「今まで死んだ人間の霊がうかばれない」、「我々は大手をふって靖国神社の前を通れません」と、考えてみればバカバカしい愚論ですが、それでとうとう漸然として、8月11日、12日、13日の3日間、御前会議があの宮城の吹上げ通りの壕の中で開かれて、それでとうとう8月13日に結局、陛下のご配慮の断が下され、極めて不利益な無条件降伏、軍隊を全て日本からなくなし、いかなる要求にも応じますという、無条件降伏でもつて降伏する事になっちゃったのです。
全く考えてみると、その当時の陸軍上層幹部、海軍上層幹部、無責任きわまりない態度で、この終戦の陛下の下した断を頂戴してなす術を知らなかった、あわれな状態になったのですから。
そして陛下はこれを全国民はもちろん、世界の総てに無条件降伏するべきご自分の気持ちを放送しようという事で、13日の夜中に御前会議がすんでから、夜中の2時にであります。今日の第一政務所になった、その当時仮政務所になっている所で、下村情報局総裁、並びに宮内省大臣立ち会いの上で、三度録音盤に吹き込みなされて、声の調子や文章がいろいろの具合でもってうまく入らなかった。そうして13日の正午に、これを宮内省の特別放送室から、NHKの電波を通じて定時間に放送するということに決定されたのであります。
そうして、これからがお聞きになってくださいよ、録音盤がまさかそれが大きな事件の元になろうとは、我々も知りませんでしたから、徳川侍従がこれを責任を持って保管することにして、侍従室の金庫の中に保管することになったのであります。そうして15日までまで事がなければ、そのままなんの事もなく済んだのですが、いわゆる世の中にはどんな事が起るかわからない。
14日の昼頃でしたか、私が皇宮警察本部の大谷喜一郎というのが天風会員であります。本部長ですね。それを、どうせ私は用がないのですから、徳川侍従の部屋にじっとして居るわけにもゆきませんから、お城の中をぶらぶらし、碁を打ったり、あっちへ行ちゃあ本を読み、お昼頃、大谷君が先生にご飯を差し上げながら、またへぼ碁をひとつお教わりたいから、お出で願いたいと使者が来たので行ったんだよ。行っていったん碁を打つと、「先生お願いがあるのですけど」、「何だ」というと、「今夜ひとつここに泊まつていただきたいのですけど」、 徳川侍従官舎と警察本部の間はここからちょうどあの(外を見て)前田の歯医者のあるくらい離れているんだよ。林門の脇に侍従の官舎があるんだよ、それから警察本部はどちらかというと、坂下門の脇にあるんだよ。「何ださみしいのか」と言ったら、「先生ご存じないのですか」、「なんだ」と言ったら、「少し面白くない気配を感じているのです」。「どんな気配だい」。
「これは実現しなければ結構なのですけど、近衛師団の若い士官たちが、明日の放送をお取り止め願いたいというような事で、とにかく一騒動起こしそうな気配がある事を、情報で耳にしているのです。」
「よしそうか」、そうすると言うと当然警察本部は宮城を護衛する任務の上から、勢きよいどうしても陸軍軍人と衝突する事になります。そうした場合、一番心配になるのが録音盤なんです。
「録音盤はどこにあるんだい」と、私が言つたらね、
「先生だけですから内緒でお知らせしますが、侍従室の金庫の中に入つているんです」
「そりゃいかん。そりゃ〜だめだぜ」、素人考えでいくっていうと、金庫へ入れて置けば一番無事と思うかもしれないが、これは素人の考えです。
「そういう重要なものはだな、知らん面したからに、普通の物を置くように棚の上に置いとけば、それが一番いいから」
「いやしかし白鳳帯に包んで桐の箱の中に入れております」
「そんな事する必要があるかい」
「でも恐れ多い陛下の玉音が入つていますから」
「陛下の玉音が入っていようと、我々のこの無駄物が入っていようとも、取られてはいけない物を、かえってそういう事をしたら、余計に取られやすくなるじゃないか。普通の紙に包んで、何かその夏の事ですから、ももひきや何かに包んで、そこいらの棚の上におっぽり出した置く様にしておけ」
「いや〜その〜、私も気がつかなかったけど、やつぱり軍事探偵だけあって、非常に、その〜いいご注意で」、
「その様にしろ」、それで大谷君が急いで侍従室へ連絡を取ったのです。
そうして「しかし先生、明日の12時まで一人では何かと心細いから、先生居てください」と言うから、「あぁ、どこに居ても同じなんだから居てやるよ」
けど大谷君は勲章持っている、陸軍の少佐までなった人間で井上さんと同じ公爵勲章を持っている人間んだ、戦争でもって右腕を怪我したから、帰って来てから戦争に行かないで、警察本部の部長しているんです。
「貴様は一度は鉄砲の玉の下をくぐった人間じゃねいか、ましてやこういう名誉ある警察本部の部長しているんだ、今宵、この時、この為に死んだと思えば、なんにも命が惜しいはずがないじゃねえか。」
「命が惜しいわけきゃありません。任務遂行というものを完全に果たしたいがために、先生お願いだ」と、手を合わせて拝むんです。
「よし、それじゃ〜俺が居てやるから心配するな」。
そうして二人で10時頃までヘボ碁を打っていて、その内、私がひょいと考えついたので、「大谷、2時で交代していいから、それまで俺が起きてるから寝ろ」、本部長の部屋に木でこしらえた絹ごしらえの寝台が置いてある。
「2時から俺が寝るから、2時からお前が起きろ。騒動がおっぱちまるのは、それまでにおっぱじまるだろうからな。いや騒動がおっぱじまっても、貴様は出ない方がいい。貴様は警察本部長という任務を持っているから、応対するのに、そりゃまあ、やりにくくなる点があるから、俺は天下の浪人だ、俺の言ってる事にはなんにも責任がない。俺に任せておけい。とにかく、2時過ぎに騒動が起きたら俺が代わりに起きてやるから、俺に任せておけよ」。
多くをいうまでもなく、私は天下の浪人だから、私が何を言ったからって、私の言葉には責任はありません。けど大谷君はかりそめにも本部長でありますから、管理者としてからに一つでも言い損ないがあると、これは非常の責任が、今度は強いては宮内省からさらに宮内大臣、恐れ多くもまた陛下の要するに上まで影響があるといけないから、私はそれを思い計つた。これが後にも非常にそうした事がいい結果がきました。
そうして2時間ばかり本を読んでおりますると、12時ちょっと回った時分であります。外に出ないで警察本部に居たら、誰かが血相変えて「部長殿、部長殿」と言うから、「部長は寝ている、何んだ用は」
「陸軍の士官が、兵隊を連れてこちらへ来ます」。
「陸軍の士官が、兵隊を連れて来る、あれか、どれくらい来るんだ」
「先生ご存知ないのですか、宵の口からこの皇居は陸軍に占領されています」
「そうかい、そりゃ〜知らなかったよ。俺は宵の口からここにいたから、表に一歩もでてないんで」
(テープの録音が少し中断)
「みな地下室に監禁されてしまっています」、「それで桜田門も、二重橋も、乾門も、全部の御門という御門は、陸軍の軍隊で固めちゃっています」、「じきにここへ兵隊が来ます」と、顔を真っ青にしているんですよ。
そうこうして言葉が終わらないうちにドカドカドカと、相当荒く血相をかえて陸軍の少佐の服装をした人間が、研ぎ澄ました軍刀を抜きながら、兵隊を15、6人、みんな白襷させて入ってきたのであります。そしてドア脇に立ってから、
「お頼みします」
ちょっと図面を書きましょう、その時の、、(黒板に図面を書きながら)
ここが二階の梯子団、ここが丸テーブルがある、ここの陰に寝台がある。ここに警察本部長が寝てるわけ。ここに椅子が4つある。それでここに部長の普段の事務テーブルが置いてある。私はここに居たわけ。ここに立ったわけ。兵隊はざら〜とここに並んだわけ。もう興奮しちゃっていてオロオロ軍刀を持った手がふるえている、
「お頼みします」と言うから、とにかく気ぶれの様に興奮している矢先であります。あるいはそれ以上奥に入れば、たとえ探し付けないまでも事が大きくなる。
恐らくこの晩、そういうことがなくもお休みできなかった陛下が、より一層どれだけ心配を多くするか知れないのみならず、事件が拡大すると正規ある講和を日本が申し込んだ事にならない。
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「何だ、貴様らは」、羽織袴姿の天風に寸分の隙もない。
「ここは私室だ、みればわかるだろう。黙って踏みこむとはいったいどういうことだ」と、若い彼らに優しく声をかけた。
「はっ、失礼いたしました。実は探し物をしているものですから」
「そうか、何をさがそうというのか知らんが、人の部屋へ入って来たら、自分の官、姓名くらいは名乗れ。私は中村天風だ」
「はっ、自分は近衛師団参謀、石原少佐であります。自分は、陛下のお声を録音した、玉音盤をさがしております」
「そうか、詳しいことはわからないが、とにかく段平をしまえ。敵が上陸してきたわけでもあるまい。日本刀というものは、武士の魂であり、また敵から身を護るためのものだ。やたらに抜くものでない。早く、しまえ」
「はっ・・・」、軍刀を鞘に収めた石原少佐は、蹶起の趣旨を述べ、
「降状など、断じてできません」と、涙ながらに訴える。
天風は諭すように「軍人としての、その気持ちはよくわかる。しかし、陛下のお言葉とあれば、まさに綸言汗の如しで変更はない。となれば、その生命をお守りするのが軍人の責務だろう」。
石原少佐は猛然とこれに反発し「いえ、違います。それは君側が陛下に無理強いしたことであって、陛下御自身のお考えではありません」。
この時であった。天風の口から雷のごとき叱声が発せられた。
「馬鹿者!」「貴様は、それでも軍人か!」。天風の顔は、一瞬、阿修羅のごとき、凄まじい形相になっていた。
「いいか、陛下は大臣や幕僚の言に左右されるような、そんな御貫禄の薄いおかたではない。こんな重大なことを陛下以外に誰が決められるというのだ」
「・・・・・」、石原少佐にとって、それは思いもかけぬ一言であった。それに縛られ、しばらく塑像のように動けぬ少佐であったが、やがて、その眼からは、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちていった。
ああ、これで万事休すだとの思いが、一気にこみあげてきたのであろう。さすがの石原少佐も、まさに臣下として逆らいようのな、きつい一言であった。 (注)
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しかし、有り難い事に、私の正義が貫徹したんでしょう、来た時の勢いと打って変わって、まるで手綱する羊の様に多くの兵隊を連れて静かに階段を降りて行ったのであります。そうすると今度は寝台に寝ていた大谷が、その木の用具をたくり出して、、
「ふ〜おどろいた。先生って人は無茶な。いつ無惨に切られてしまうかと、それはもうぶるぶるふるえてた。たいした勢いですね」と、言うから。
「そんなに勢いがあったかい」
「そりゃ〜驚いた。よくもあのキチガイみたいな暴れに、あれだけ怒鳴りつけましたね」と、言うから、「別にたいして怒鳴りつけるつもりはなかった。けれどもついあういう声がでたんだよ」。
「しかしおっかなくなかったですか」
「おっかね〜よ、馬鹿、、、、(録音が聞き取れない)」と、言って話しているところへ、
今度は警察官が入って来て、「今の兵隊が役所の所で腹を切りおった」。
「なに役所の所で腹を切った。多くをしゃべるな」
「御料車の入っている所」、「どこ」 (聞きとり困難)
そこに関東軍司令官の田中静壱大将が、そりゃもうよろけるようにして入って来て、「今ここへ近衛の士官が来ましたか」と、言うから。
「来た。来たから私が言い聞かせて帰した」
「それが腹を切ったんだ」。
「そりゃ〜大変だ。どこで腹を切ったんだ」、「役所らしい」と言って。
そこで大谷部長、田中大将と同伴して下に降りて行くと、今の宮内庁の正面の所のガラージが、前に空襲で焼かれまして、あのお馴染の皮色の菊花のついてる自動車が2台、それから普段行幸の黒色の自動車2台、ガラージがないもんですから寄り合ってあそこに入れてあった。
その菊花の車の間でもって腹を切ってしまった。それからすぐ私がそこに行ってから、兵隊が5、6人しょんぼりして立っている。それから5人で白襷で持って行け。掃除して早く清めろ。
全くしょうがない、御料車の前で腹を切るなど。本人はどうせ死ぬなら陛下の御料車の前で腹を切るつもりで本人は何とも思わないで腹を切ったんでしょうけど、それは不敬極まりない話であります。それだからその事は秘密にし、これだけの人間しか知らないのだから。つまり、私と大谷部長と田中大将、それから脇にいる兵隊6人しか知らないんだ。
ですからずいぶん長い間、秘密が保たれたんですが、昭和25年になってその中の一人の兵隊が生き残っていて、これがしゃべったんです。こいつは今回まだ生きてました。こいつは昭和27年に死にました。
田中大将は8月22日にこの責任を負ったのであります。田中軍司令官は死ぬ必要がなかったのですが、自分の監督における責任として、8月22日これも腹を切って死んでしまいました。
当座この時、お城の中にいる兵隊たちに外から援助したのが、これが坂下門の外で腹を切った畑中中佐でありました。この中佐だけは、ジャーナリストが雑誌や新聞に書いたのであります。そりゃ外の事ですからすぐわかります。
お城の中の事は天上天下、私一人しか知らないわけです。
そいで話は終えるのですが、とにかくそういう場合に、普段と同じ通りでたとえどういう場合があろうが、たとえ大声を出しても私の冷静の気持ちは少しも乱されなかった。そして極めて円満な解決と言っていいような解決をつけられたのも、私は自分が何べんか危機存亡の中を往来していざという時に心が乱れなかったためだと本当に感謝した次第です。
よくいうように、上ずちゃうとか、慌てる、あるいは驚くかしたら解決はつかないでしょう。人並みの返答をしたならば、こいつは怪しいと見るにちがいない。録音盤がどこに在るかを知ってるには私ですからね。そうすりゃ〜徳川侍従の様にはり飛ばされ、突き飛ばされてひどい場合に殺されかねない。おまけにきちがいより興奮している男に15、6人の兵隊がついているのですから、ただ不思議なことに腹を切った頃に兵隊は6人しかいなかったのですから、後の兵隊は早く帰して自分の腹を切ったのだと思います。
そして腹を切ってたんで無事この事件が終えちゃって、そして明くる日に無事に、15日の12時にあなたがたが聞いたであろうあの放送ができたわけであります。
あれが明くる日の朝まで、腹を切った後まで、夜明けまで宮内大臣や下村情報局総裁も宮内省の地下室にみな監禁されちゃった。それを私は知らなかった。兵隊がみんな宮城から出ていちゃった後に、警察官が一人もいないだろ、「大谷これどうなちゃったんだよ、警察官は」、そいつがどこえ行ちゃたんだか部長も知らない。
宮内省の地下室にみな監禁されちゃった、それでは行こうと言うので地下室へ行ったところが、その中に各部屋だの宿直部屋だの、それから仕舞いにゃ〜お膳なんか入れてる部屋にみんな閉じ込めちゃっているんですよ、そいで閉じ込めたまんま兵隊は市内に帰っちゃった。
それから中から出てくるのが、宮内大臣いる、下村情報局総裁いる、生きた心地がしなかったにちがいない。警察官は早く出て道路を固めろ。
しかし、兵隊の力というのは恐ろしいもんだな。2800人もいた警察官が、もっとも兵隊もそれくらいはいますから、片方は実弾持って鉄砲持って入って来たんだから、これはもう無抵抗でもって宮内庁の地下室に入れられちゃったわけだ。
一時はそんな風に宮内庁のお城の中は、たった半夜間でしたけれども近衛の兵隊に占領されてしまったような次第であります。あれがあのまま拡大したら、一体どうなるだろうかということを考えると、まあよしんば私が殺されても、あの事件が終えた事を大変なよろこびです。私は殺されもしないでもって、たった一人の私のその時の処置でもって解決がつけられた事に、たとえそれが世の中に伝わろうが伝わるまいが、私の心の中で大きな誇り以上の感謝でもって考えている次第であります。
思いで深い15年の昔のただ物語であります。ご参考になれば結構であります。 (盛大な拍手)
(注)*****線内の会話は軍人の名誉を思いはかり、この講話録音では話されていませんでしたが、当時の情況をより理解するために補記として、大井満氏の著書「心機を転ず」から抜粋して挿入させてもらいました。
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