13. 愛情について
宇宙の心と人間の心
(昭和29年1月の講話)
誰もが人間に心のあることを知っていますが、人間以外の宇宙というものにもやはり心があるということを、正しく知っている人は、極めて少ないのではないかと思います。
それでは、その宇宙の心というものは何かといいますと、これが一番よくわかるのは、人間の愛の情で何事も、何ものにも接するように心がけていると、「はぁはぁ〜」というふうに直感的に感じられるのであります。
特別に深く考えることもなく、すぐ目の前にある世の中にあることからでも、「はぁはぁ〜」これも宇宙の心がしからしめる結果だな〜と思える消息が、いくらでもわかってくるものである。
もう古い話ですが、元陸軍中将の高嶋子爵という人が、日頃から変わった石を集めるのが一つの道楽でして、いわゆる石のマニアですな。この人がある日、私に「先生、この何も心も魂もない石のようなものでも、こうのべつ愛情を持って扱っていると、何とも言えない一つの溶け合うものを感じてくるものであり、全く不思議なくらいです」と言われましたが、私は全くその通りだと思いましたよ。というのもこれと同じことを植物に対しても感じませんか。
たとえば草花のようなものでも愛情で接していると育ちもいいし、また何とも言えない溶け合うようなものを感じるんです。これはもう私がいつも経験していて、あなた方のなかに植木などが好きな人は、ご経験あると思うが、自分で目にかけている、いわゆる愛情をもって接しているものはどうしてもできがいい。あえてこれは草や木ばかりでなく、これと同等のものが動物に対してさらに一層明瞭に感じられやしませんか。たとえば犬ごとき、猫ごときでも、愛してやればやるほど飼い主を親のように恋慕う、これはようするに心と心が一つに溶け合ったからの結果です。
私は先年、蒙古生まれのヌクテつまり狼を蒙古から送られてきて飼ったことがあるんですが、ヌクテは猛獣ですな、なかなか人になつくものでありません。ところがこうして容易になつかない猛獣でも、愛の情で接していると実に予想外に犬よりもよく馴れてきまして、非常におとなしくなってきているのには不思議なくらいなので、それで私も興味を感じたので一生懸命これにいろいろな芸をしこんでやってみた。そうしたら人間の言葉を聞き分けることは犬以上なんですよ。「タバコを持つて来い」と言えば持って来るし、「マッチだよ」と言えばくわえてくるしね。
そこで、渋谷公会堂にて玄人の犬屋を集めて、「犬でない犬」というふり出しでもって家の犬を試験してみせたら犬屋たちは驚きましたよ。
当時、東京でもってセパードで訓練成績で一等賞を獲っていたのは、荒木大将のセパードでしてね、それと一つ競技比べさせてみようではないかということで連れてきましたが、これがてんで駄目でした。なぜかと言いますと、なにせ腐っても狼という猛獣でしょう、私の家の狼を見ますと、たぶん臭いでわかるのでしょうが、初めから尻尾を垂れちゃってステージに上がっても、首を垂れちゃって全くなにもやりませんでしたよ。そこで私のとことが非常な賞賛をもって一等をもらて得々として帰ってきたようなわけなんです。
とにかくこういう事実から考えてみても、人間の心の中にある愛の情というものは、実に何もかも一つに溶け込ましてしまうほどの力がある。この一つに溶け込ましてしまうという、これがつまり宇宙の心の働きなんです。
言い替えますと「一切を調和接合する」。わかりやすくいうならば、「和合」という言葉が、一番宇宙の心をはっきりわからせる言葉です。要するに「和合」という言葉で、宇宙の本来の目的である進化向上たることが現実化されるわけなんです。だから講習会の時によく言っているでしょう、「いかなる場合にも、人と接する時、物に接する時に、愛の情を失ってはいけない」と。特に人に接する時に、かりにも憎しみや怒りの感情を持っては絶対にいけないと、私がよく言っているのも、いま申しあげた思量があるからなんです。
特に人間同士の間にはひとしお愛情の力という働きが極めて顕著なものを感じさせるのです。考えてくださいよ。親子の間にしても、夫婦の間にしても、兄弟の間にしても、友人知己の間にしてもですよ、お互いが愛し合えば愛し合うほど親しくなれる。親しくなれるということは一つに溶け合う気持ちのことでしょう。
たとえばですよ、何の気持ちも持たないで手と手を握り合ってみてもですよ、それは物質的なものが単なる接触していることで、それ以上握り合ったところで溶け合う気ずかいもなく一つになれないはずだ。ところがその場合に、愛の情という心と心とが互いにあった場合には、そのふれ合いというものは、たちまち二人の心を溶け合わせてしまう。こういう事実を考えてみても愛する心の尊さを、おわかりになるでしょう。
ですから、何ものにも何事に対しても、何時も愛の心で応接しておいてさえいれば、期せずしてその結果は、天地万物と溶け合うことになり、そこに不調和というものがなくなってしまう。不調和のない世界、つまり人間の心と宇宙の心が一つになれるからなんです。
ところがたいていの人は、それをそうと気ずかないで、特に愛の情なんてものは、自分の利害が一致しているような場合以外は、なかなかたとえ親子の間でも、兄弟の間でも、夫婦の間でも、ひどいものには恋人同士でもですよ、利害が相克する場合たちまち愛情を憎しみの情に、恨みの情にしてしまうようですから、自分では気ずかないうちに一切を溶け合わせよういう宇宙の心と自分の心のつなぎ目を切り離してしまう。
それにもう一つ、我々が知っておきたいことは、人間の心と宇宙の心が一つになれるとどうなるかと言いますと、本当に歓喜というものが感じられるのです。喜びですね。本当の喜びとは一体どんな心かといいますと、どんな場合にも楽しく何事にも嬉しさで接し、感じて活きられるという気持ちです。
言い替えると、この世に嫌なことやいまわしいということが無くなってしまうことと同じなんです。この世の中に嫌なこと、いまわしきものが無くなって人生に活きられるとしたら、人生これくらい幸福なこともないでしょう。これが宇宙の心と人間の心が一つに溶け合うという、愛の心が出た場合に生じる現象なのですよ。
ところがどうしたことか、そのことを考えずに、憎んだり、怒ったり、そねんだり、恨んだりという、起こすまじき心を起こして、その結果がなんと自分という尊いものの値打ちをスポイルするばかりでなく、果てには活きる力までも弱くしている人が、今の世の中にずいぶんと多いでしょう。ここは真剣に考えなければいけません。人々の多くはしなくてもいい病や、煩悶や、貧乏をなんてものを嫌々ながら受けているのも、こうしたところに原因があるということを、厳かに考えなければいけないのであります。
ベーコンという哲学者が言ってましたね、「愚かな人間というのは、宇宙の真理を正しく自覚していない人間のことだ」と。だからお互いにですよ、常に自分の心に愛の情を満たした尊い人間として活きることに心がけなければだめなんですね。
そして、その心がけの実行を現実化する注意として、先ずは朝、目が覚めたら「あ〜生きてたか」ということに感謝するんですな。なぜかと言えば、甦ったのですから。そうでしょう、夕べ寝ている間に死んだからって喧嘩にもならない。とにかくこうして目が覚めることは、生きているんだから、甦えったことを心から感謝しなくては。
多くの人はどうも朝に目が覚めることを、当たり前のように考えているが、当たり前だと考えていると、いつか時がくると、いつまでも目が覚めない朝が一度はあるということを考えなけりゃ駄目なんだ。
とにかく目が覚めたら生きている有り難さに感謝して、その感謝の気持ちで自分の心を一切にふりむける時、愛の心はさらに豊かにして一切を考え、一切に接すること。この心がけは、なんと宇宙の心に自分の方から勢いよく飛び込んで行くのと同じことなのです。
そして一日を生きている間は、何事があろうとも、すべて愛の情で接するというふうにする。そうすると求めずとも、いかなる場合にも、明るく、朗らかに、勇ましい、積極的な気持ちができ上がってくるのです。そしてただもう、見るもの、聞くものが、楽しく、嬉しく、本当に穏やかさを感じて、人生を活きられます。
それを理屈をつけて、こういうわけだから可愛がられない、こいいうわけだから愛せないとか、なんだかんだ、すべったころんだと言っては、すぐ憎しみ、怒りを、恨みを、そねみをというふうに、心のなかを価値の無い感情でもって涙を出してしまって、しかもそれが人生にとって当然のようにしている人がある。これでは何時までたったって本当の幸福は来やしませんよ。幸福の鳥を、メーテル・リングの言っている、あの「青い鳥」を、自分の方から追い出しているんだもの。そして追い出しちゃったことに気がつかないで、俺だけ特別な恵まれない因果な、哀れな宿命の子と生まれたのではないかなどというふうに、妙にセンチに考えている人がいるのであります。
結局、「人生というものは、心一つの置きどころ」だもんね。
ですから、今後とても、特に憎いな〜、腹が立つな〜と思った時には、すぐに一歩退いて「あ、いけない。俺の心の中の愛の情が、この場合、非情に薄くなっているぞ」ということを、自ら反省をしなくてはいけない。
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