05. 水の巻

DSCN3103-1.jpg

水の巻  心の積極化

 <積極一貫>

 万物を創り活動している宇宙エネルギーは、プラスの気とマイナス気が二極陰陽になって働いています。
 プラスのエネルギーは「結合と建設」の働きを行い、マイナスのエネルギーは「分解と還元」の働きをしています。万物はプラスの「生」とマイナスの「滅」の交互作用によって現実化してきます。
 人生もまた然りで、幸福で、健康で、運命的にもよりよいものにするには、先ず何をおいても心の態度を積極的しなければなりません。幸福も、健康も、運命も、積極的な心で決定されてくるからです。
 私たちは長きにわたり消極的な思考や感情に慣れ親しんできたため、消極的な要素が心に染み込んでいてなかなか積極的になれません。しかし、よりよい人生を活きて行くにはいかなる場合にも、心の態度を積極化させることが重要になります。物事を積極的な方面から考える習慣を身につけることが必要になってきます。
 すべての事柄に対し積極的な心で対応することが、よりよい人生を活きていくための要諦になります。心の態度が消極的ですと人生が光のない哀れなものになりますが、心が積極的であれば勢いに満ちたものになります。積極心は人を活かし、物を活かしそこから繁栄が生まれてきます。自分の心が幸せを創りもしまた不幸も創ります。
 物理学でいう「同気は相求める」法則の通り、宇宙エネルギーも人間も気体からできていますから同気が同化してきます。心が積極のプラス方面に向かいますと、建設の働きをするプラスの気と同化し不運や病でも好転してきます。反対に心が消極的なマイナスの方に向かいますと、分解の働きをするマイナス気と同化して運命も健康も悪くなって行きます。同じ事柄でも心の態度が積極か消極かで結果が大きく違ってきます。
 ですからプラスのエネルギーを引き寄せるために常日頃から積極心を養成しておきませんといざという時に役に立ちません。何かあるのが人生でして地震も来る時には来るし、台風も来る、煩悩も生じるし、病気にもなります。それに時が来ればみなあの世に逝きます。たとえどんなに神仏を祈り、無病息災を祈願しても天災や不幸が自分だけを避けて通るわけに行きません。天災も、不幸も、煩悩も来る時には来ます。そうした有事の時に慌てずうろたえず、人生の軌道を外すことなく毅然とした態度で乗り超えて行くために常日頃から心を積極化させておく必要があるわけです。
 人生が順調で健康な時には誰もが積極的な心を維持していられますが、積極心を真に必要とする時は不運や病気にみまわれた時なのです。不遇な時にこそより一層「積極一貫」で乗り超えて行くしかないのです。たとえ悲しいことや辛いことがあってもすぐさま悲しんだり苦しんで不幸な出来事を連鎖させないために、心を積極的な方面に切り替えて乗り超えて行くこと必要になります。いかなる場合にも、心を明るく、苦しみも微笑みにふりかえて行けば、悲しいことや辛いことが逃げて行きます。人生を積極的な心で生きることは、この複雑混沌たる世の中にあって幸福で健康に生き抜いていく要諦であります。
 やれ運命がよくない、人生がつまらないという人は、その人の心の態度がつまらないのです。幸福や好運は向こうからやって来るのでなく自分からよび寄せるものです。自分でよび寄せるには心を積極化せしめることです。幸福や好運は積極的な人が好きなのです。
 同じ環境で育った双子の兄弟でも、一方は積極の道を行き一方は消極の道を歩いたとして、どの道を選択するかは本人の自由ですが、結果はけして自由でありません。「蒔いた通りに花は咲き」ます。

 <心の積極法>
 
 実在意識の積極化
は、いついかなる場合でも物事を積極的に思い、積極的の方面から考える習慣を身につけることにあります。
 心の積極化は理解しただけでなく実践がともないます。

 積極法には:
  *暗示の内省
  *暗示の分析
  *対人態度の積極化
  *取越苦労の厳禁
  *言葉の積極化
  *正義の実行、があります。

 実在意識は目に見える心ですから、心を積極化しようとする意志さえあれば、わずかな努力で出来ます。積極法を継続して行きますとそれがしだいに習慣化されます。
 スポーツ選手が強度と頻度の練習を繰り返えすことで運動神経や肉体によりよい習慣をマスターして上達するように、心も強度と頻度で練習を繰り返すことでよりよい習慣をマスターすることができます。


 *暗示の内省

 私たちをとりまく生活環境は、暗示の世界でもあります。
 マスメディアから流れるニュースの多くは消極的なネガティブな暗示であふれています。テレビのバラエティー番組や週刊誌などは、嫉妬の感情と醜悪なスキャンダル情報で埋め尽くされています。また人々の交わす会話のなかも消極的なマイナスの言葉がたくさん含まれています。
 そうした外界からくる暗示を受けて、何かを思う時、考える時に、いま自分が思っている事、考えている事は、果たして積極的か消極的かを客観的に内省して注意深く検討することです。
 自分の心の態度を厳粛に内省し、今の思考はプラス思考かマイナス思考かを検討します。もしそれが少しでも消極的な思考だと思ったら勇気をもって心の中から追い出してしまうことです。そして心を常に積極的な方面へ向かわせるように努め、自己の感受性が積極的な暗示しか受け入れないように習慣化します。これが習慣化してきますと消極的な暗示を受け付けなくなってきます。

*暗示の分析
 
 誰もが暗示を感受する同化作用をもっています。暗示の分析とは外界からくる暗示に対して、それがプラスの暗示かマイナスの暗示かを厳格に分析します。
 暗示には積極的なプラスに作用するものと消極的なマイナスに作用するものがあります。暗示を受ける際に受けとる側の心の態度が積極的か消極的かで、プラスかマイナス方面に感受されてゆきます。

 私たちは暗示の世界に活きていますので、暗示を受ける際に注意しなければならないのは、私たちの周囲をとりまく暗示のほとんどが消極的だということです。そして知らない間にたくさんの消極的な暗示を感受しているということです。
 そこで外界からくる暗示に対し客観的に注意深く観察して積極的な暗示か消極的な暗示かを分析して行くことが重要になります。外界から受ける暗示を分析して心に積極的なプラス暗示だけを感受するよう努め、それが消極的なマイナス暗示ならばきっぱりと拒絶する習慣を身につけることです。


*対人態度の積極化

 社会は人と人との交流でなりたっています。人と交わる時には常に積極的な態度と言葉で対応するよう心がけます。たとえどんなことがあってもできるかぎり自分の心を、明るく、朗らかに、活発で勇ましさを失わない態度で応接するように努めます。特に不健康な人や悲運な人と接する時には、その人を元気づけ、勇気づけ、心に光を与え、明るい方向に善導してあげることです。同情でなく善導を心がけることです。
 不運な人や不健康な人には同情すべきですが、真の同情とは積極的な心をもって相手の人を元気づけ勇気を与えてやり、その人の心に積極的な暗示を送ってあげることが「お見舞い」という心の態度なのです。この様な態度で接しますと暗示は主語を選びませんから、相手に大きな力を与えるだけでなく、自分自身にも積極的な自己暗示となって返ってきます。
 相手の不健康や不運命に対して同情することは尊いことです。しかし、ここで一つだけ注意すべきことは同情の枠を越えて相手側に感情移入しないことです。よく同情の枠を越えて相手と同じように悩んだり、あるいは悲しんだりしている人がいますが、これはとんでもない間違いです。なぜ間違いなのかと言いますと一人の不健康や不運命で二人あるいは周りの多くの人にそれと同様な状態をつくる結果になるからです。
ですから人の言葉や行動のなかにある消極的なものに自分の心を同調させないことです。こうした注意をしないで言葉や行動に同情してしまうと、せっかく培った積極心が損なわれてしまいます。



 *取り越し苦労厳禁

 苦労には過去苦労、現在苦労、未来苦労の3通りがあります。
 過去苦労は過ぎ去ってこと、または取り返しのつかないことを、いつまでも思い返して悔やんだりする苦労です。
 現在苦労はたった今の人生を、あれこれ悩んだり心配したりする苦労です。
 そして一番いけないのがまだこない未来にあれこれと心配したり、悲観したりする取り越し苦労となります。
取り越し苦労とはまだ現実に起こっていない未来に対して消極的なよくない事を、あれこれと連想し怖れおののいているようなものです。取り越し苦労はいたずらに生命力を消耗させるだけで何の得るものもない全損失的な行為です。
 取り越し苦労はもとより消極的なマイナス思考ですから、いつまでもあれこれと考えていても自分が安心できる積極的なプラスの思考へふり向けられません。思えば思うほど、考えれば考えるほど、ますます迷い悩むというものです。心の中になにかの悩み事があるとしたら、そのほとんどが取り越し苦労か消極的思考によるものです。
 それはちょうど闇の夜道に懐中電灯を高く掲げて、百歩先に何かありはしないかと心配して歩く人と同じことです。静かに足元を照らして歩けばつまずきもせず転びもしないのに、足元を見ないで遠くばかり心配して歩くので、つまずいたり溝に落ちたりします。取り越し苦労をするのが当然と思っている苦労性の人は、 何のことはない自分の運命の墓穴を自分で掘っている愚かな人です。取り越し苦労ばかりに注意が行ってしまい「今」を見失ってしまいます。
 取り越し苦労は何の役にもたたない百害あって一利無しですから断然やめるべきです。多くの人はこのことに気がつかないで取り越し苦労するのが当たり前のように思っていますが、心理学的にみても取り越し苦労は厳禁なのです。真理というものはまことに厳粛かつ冷徹なものでして、取り越し苦労をすればするほど、何事にも安心できなくなり、ついにはその心配した事柄が結果となって我が身に現れてくるようになるからです。
 古来から「過ぎたるは追うべからず、来たらざるは迎うべからず。心は常に現在を要す」と、過去や未来をあれこれ思い悩む苦労を戒めています。
  聖書にも「怖れるな、汝の怖れたことは、汝の身にふりかかるだろう」と、取り越し苦労している事が、やがてその通りになって我が身にふりかかってくると説いています。ですから余計な心配事が心によぎったら即座に心機一転させ、「私にそんなことが起こるものか、必ずよくなる」と、積極的なプラスの事柄に切り替えを行い、勇気をもって取り越し苦労を断ち切ることです。
 実際にも取り越し苦労はたいていの場合、自分が考えているほど恐ろしいものではありません。安ずるよりも産むが安しで、その時になれば意外と簡単にすむものです。ですから差しあたる「今」にベストを尽くして行くことです。
船に乗ったら船頭まかせ、波が出やしないか、嵐になりゃしないか、沈没しやしないか、あれこれ心配ばかりしていたら船旅の楽しさは味わえません。人生もまた然りです。

 *言葉の積極化

 言葉にはたいへん強烈な暗示力があります。
 積極的な人生を志す人は、できるだけ消極的な言葉、泣き言や弱音を口にしないことです。悲観的言葉や恐怖の表現や、怒りの言葉は使わないように心がけませんと、困った、弱った、情けない、悲しい、腹が立つ、助けてくれ、どうにもならない、まいったなど消極的な言葉が満ちあふれた社会に生きていますので、いつしかそうした価値のない言葉に感化されてしまいます。
 多くの人は言葉と心とが直接に関係している重大な事実を知らずにいますが、言葉は実在意識を決定する感化力をもっています。感化力というよりもむしろ暗示力をもっています。そしてその暗示が潜在意識に記憶されてしまいます。
 人間だけに与えられた言葉は、積極的に表現された時と、消極的に表現された時とでは、受ける影響に極めて大きな違いが生じます。積極的な言葉で表現された場合、生命の一切が極めてよい状態になって現われてきます。しかし、消極的な悪い言葉で話していると、それが自分自身ばかりでなく、それを聞いている周りの人にまでよくない影響を与えてしまいます。日常においてだいたいの人が消極的な言葉をなんの考慮もなしに平然と話していますが、その言葉により本人も周りの人たちも、どれほど心を消極化させているかを知らずにいます。「口害」をふりまくのは慎むべきなのです。
 また、言葉は話し終えたら消えて無くなると気軽に考えていますが、言い放った後にも波動として残ります。日本では古くから「言霊」と称し、言葉には霊魂が宿ると考えられていました。聖書にも「初めに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」と神聖視しています。
 不愉快、頭が痛い、熱がある、気持ち悪いなどという言葉を、口から出している時に誰もが愉快に感じません。嬉しい、楽しい、有り難いと言った時には何ともいえない心地よさが感じられます。感じるのは実在意識が感じるわけで、その感じが神経系統を通して潜在意識へ影響を及ぼします。潜在意識と実在意識の気持が同化しますと神経系統も同じように同化してリラックスしてきます。
 このように言葉の良し悪しによって生きる力が良くも悪くもなります。潜在意識は主語を選びませんので、自分の口からでた不平不満や人を中傷する言葉を発すると、その中傷が相手にも自分にもふりかかってきます。天に向かって唾を吐けば、やがてその「ツバ」が反転して「バツ」なって返ってきます。
 たとえば暑い時についつい「今日は暑いなあ〜、やりきれない」と言ってしまいがちですが、厳格にはこの「やりきれない」がいけないわけです。暑さ寒さは体が受ける感覚ですから言ってもよいのですが、どうせ言うならその語尾に積極さを加えて「今日は暑いなあ〜、よけい元気がでるな〜」とでも言い換えればよいわけです。
 このようにお互いの心を勇気ずけるプラスの言葉、喜びを分かち合う言葉、聞いていてなんとなく楽しくなる言葉で会話しましょう。人生は観念の世界ですからおおいに気分に左右されます。ですからどんなに大変な時にでも、心に積極性さを失なわないよう言葉に注意することです。
 言葉を積極化させることは簡単なようで、いざ実行になるとこれまで長い間使っていた消極的な言葉が邪魔をしなかなか思うように口から出てきません。ここは強い意識と意志をもって積極的な言葉を使うように心がけることです。その努力が習性となれば習慣は第二の天性となり自然に実行できるようになってきます。
 「今後かりそめにも、我が舌に悪を語らせまい。否、いちいち吾が言葉に注意しよう」(天風)。

 *正義の実行

 人間は正常な心の持ち主であれば誰にでも本心良心があります。
本心良心は霊性意識ともいわれています。
 その霊性意識で常に今の心が積極か消極かを判別して行きます。本心良心は学歴や教養に関係なく自分の心で感じられ、真理を直観する自然作用をありますから、素直に自分の内なる声に耳をすませばよいわけです。
 自分の心がなんのやましさも感じない時が本心良心の現れですから、本心良心がなんとなくやましさを感じるようならば断然そのことはやらないことです。霊性意識(本心良心)がとがめる時には、勇気をだしてきっぱりと止めてしまうことです。なんとなく気が進まないことは無理してやらないことです。本心良心の気が進まないことを無理にやるとだいたいがよくない結果をまねきます。
 ですから現在はもとより将来にもけして後悔しないと思える事柄を、実行してゆくよう心がけます。付和雷同することなく、「自らをかえりみてなおおくんば、千万人といえども、我往かん」という絶対の心構えです。
 本心に背いた言動をするとなんとなく後味の悪い後ろめたさを感じますが、本心良心にかなった言動をすると爽やかな喜びを感じられます。ですから本心良心の許容する言葉や行動を表現するよう心がけることです。
 本心良心は自分の内なる声でして、さしずめゲゲゲの鬼太郎の目玉親父、ピノキオのジミニー・クリケットのこおろぎと言えます。

 以上が実在意識を積極化させる実践方法です。
 積極化しようとする意志さえあれば、特に難しいことでありませんので実行に心がけましょう。どんなによい方法でも修行として行うと面倒な感じがしますので、日常の生活の中に組み込んで実行してゆくことをお勧めします。生活即実践です。
 最初のうちは何回もやりそこない、いきなり成功なんてことはありません。しかし誰のことでもなく自分のことですから、自分の心はあくまでも自分で改善して守っていくしかありません。
転んだら起きて、倒れたら立ち上がり、屈せずにたゆまずにやることで継続は力となります。そうしますといつの日か必ずや新しい心が甦えり「なるほどな〜、自分も変ってきたな」という、よろこびの時がおとずれてきます。

トラックバック(0)

トラックバックURL: https://www.tempu-online.com/mt/mt-tb.cgi/20

コメントする