天風師が上野恩賜公園の樹下石台に立ち、人の道、命の道の辻説法を始めた日から百年になります。
1919年6月8日朝9時、天風哲人が妻・ヨシ子に向かい、
「おい、今朝から始めるんだ」
「何で今日からお始めになさいますの」
「お釈迦様は7月8日に始めたというから、俺は6月8日だ。にぎり飯をこさえてくれ、にぎり飯を」
かくして上野恩賜公園の中にある精養軒のはす向かい、青葉茂る樹下石台に、草鞋に脚絆姿の男が仁王立ちになり、右手に持った鐘を鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声を上げました。何ごとかと立ち止まった数人に向かって説法を始めた日から百年の月日が経ちました。
生前、天風哲人は当時を思い、「寒風吹きすさぶ暮れ迫る街頭で、60歳を越えたたった一人の女性のために人の道を説いたこともあった」と懐述し、「ときどきあそこへ行ってあの石台を見ちゃあ、思わず熱い胸にせきくるものを感じながら帰ってくるんです」と語っていました。
中村天風43歳、天風哲理がここ樹下石上で産声を上げた日でした。
「何で今日からお始めになさいますの」と言う妻に対し、天風哲人は江戸っ子で粋な方でしたから、口にこそ出しませんでしたが、「己の命が甦りしたこの日に」と心に秘めた熱き想いがありました。
8年前のこの日、6月8日がエジプトのカイロで、ヨーガの大聖者カリアッパ導師に巡り逢った運命の日でした。講演のときに万感胸を詰まらせ、涙ながらに「私は、この巡り逢いを想うと何とも言えない無量の感慨に胸打たれるのであります」と、語る運命の日でした。
天風哲人は日露戦争の前夜から満州奥地で軍事探偵として活躍し、終戦とともに帰還するやまもなく30歳のときに悪性の奔馬性肺結核を患い、当時最高権威であった北里柴三郎医師からも余命3年と見放され、「かくなる上は武士らしく死ね」と宣告されました。
かつて満州の奥地で軍事偵察をしていた頃は、勇猛で死などまったく恐れなかった男が、帰国するや肺結核を患って痩せ細り、すっかり気弱で哀れな男になり下がってしまいました。このときにふと、どうせ助からぬ命なら、せめてかつてのような頼もしい勇猛だった強い心を取り戻してから死のうと決意しました。
「明けても暮れても自分の弱い心のために、身体がどんどん悪いほうへ向かって行く。この悲惨な事実が、私を今日あらしめた最初の動機なんです」と、病のことよりもかつての強い心を取り戻そうという、天風哲人らしい特異な発想でした。
こうして天風哲人は、強い心の再生を求めて、アメリカと欧州各国へ渡り、当代著名な哲学者、心理学者、生命科学者を訪ね歩きました。しかし、足かけ3年の米欧遍歴で知り得たものは、最先端の医学、生理学、哲学、心理学のごくわずかで、強い心を取り戻せる発見はありませんでした。
ついに世界三分の二ほど求め歩いても救われぬ我が身に絶望し、1911年5月25日、マレーシアのペナン行き貨物船に乗り、小雨そぼふるマルセイユの仄かに暗い港を、失意と自嘲のうち離れました。
桜の咲く国、母のいる国、富士山の見える国に帰ろう。せめて日本の土で死のうと帰郷の船上にいました。それこそ死に逝く身、絶望のどん底、船上でいつ死んでしまうかもわからない息をしているだけの生きる屍でした。
そんな折りに、たまたま前を行くイタリアの砲艦がスエズ運河で座礁したため、やむなくエジプトのホテルに宿泊することになりました。この日の早朝も天風哲人はひどい喀血で起き上がれず、床に伏せていたところを、部屋の掃除にきたボーイに無理矢理抱きかかえられて食堂まで行き、モロヘイヤの青葉スープをすすっていました。その食堂で遭遇したのが、英国王室に招きでヨーガの伝導に行き帰路についていたヨーガの大聖者カリアッパ導師でした。
導師は微笑みながら天風哲人を自分のテーブルに手招きして、
「お前は右の胸に病を持っているね。その病で日本へ死にに行くのか」
「お前はまだ死ぬ運命じゃない、救われる道を知らないでいるから、私と一緒においで」、天風哲人の目の前に一筋の光が差し出されました。天の采配としか思えぬ運命の日でした。
翌朝、運命に従いカリアッパ導師に連れられ、ヨットでナイル河を下り、スエズ運河を抜けて紅海を出て、途中アラビア海岸に一、二泊と仮泊を重ねてインド洋に出てからカラチに入港し、さらに曳き船でインダス川北上し、そこからラクダの背に乗り広大なヒンドゥスタン平野を東に向い、九十五日をかけてヒマラヤの第三の高峰カンチェンジュンガの麓、インドとネパールの秘境に位置するヨーガの里に入りました。
ここヨーガの里での2年7ヶ月にわたる言語を絶する難行苦行と悟の日々は、死闘でもあり文字通り起死回生のドラマでした。
「もし、あのまま日本へ帰ってきちゃったとしたら、私の今日もある道理がなく、あなた方も私と一緒に喜びの人生を味わうことができずに終わったでしょう。マルセイユを発って2週間、因縁ですよ。どう考えてみても、事実は小説より奇なりであります」と、講演のときに瞳を潤ませながら話されました。
カリアッパ導師との巡り逢いは、天風哲人のその後の半生を決定づける一大事でした。天風哲理のすべてがここから始まります。であればこそ、己の命を甦らせてくれた8年前のこの日を、説法の門出に選ばれたのでしょう。
6月の上野恩賜公園と言えば、青葉が茂り、今日も道行く人が蓮台に似た黒い台石の前を通り過ぎて行きます。なんでもない台石ですが、草鞋に脚絆姿で仁王立ちした天風哲人の初志をそのままに、当時を偲ばせています。
(「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」より)
コメントする