1919年、大正8年6月8日、きれいに晴れ上がった心地よい朝、和服と袴のいでたちで草鞋に脚絆姿の男が、妻のこしらえた握り飯を風呂敷に包み、本郷の自宅から池之端を通りぬけ五條天神社の坂をあがり、花園稲荷神社の鳥居の右斜め前の石上で仁王立ちになり、右手にもった鐘をガランガランと鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声をあげました。
この男は何者かと立ち止まった数人に向かい、バナナの叩き売りのような調子で「おい、そんなところに立っていないで、こっちにきな。往来の邪魔になるじゃないか。これからいい話しを聞かせてやるから、こっちにきな。安心しろ、銭は一文ももらわねえ」。
「いいかい、人間の運命なんてものは、何時どうなるかわからんぞ。だから、ぼうっとして生きていたんじゃだめだぞ」。
「健康なんかは、心の持ちよで必ず建て直すことができるんだ。運命だってそうだ、心一つの置きどころでねぇ、人間というものは、心の持ち方ひとつで、幸せにもなれるし、不幸にもなる。だからねぇ、どんな場合にも心を強く持っていれば、必ず道は開けてくるものなんだ」。
自ら命の甦りを果たした体験をもとに、病める者、悩める者、貧しき者を救おうと、本来あるべき人の道、命の道を説法し、「いいかい、続きを聞きたかったら、明日またきな。ゆっくり聞かしてやるから」と、締めくくりました。
するとたちまち無届け演説として上野警察署に引っ張られましたが、「私はこれから毎日のように説法をする。そのたびに届けを出しているわけにはいかない。話しの内容を聞いてくださればわかる」と署内で演説した結果、「交通妨害せざる限り、上野警察署管内においては差し支えない」との許可書が発行されました。
こうして晴れた日も雨の日にも大道説法が続き、なかには5分とたたぬうちに、「この野郎、頭がおかしいんじゃないか」と立ち去る人、「時には寒風吹きすさぶ暮れ迫る街頭で、60歳を越えたたった一人の女性のために人の道を説いたこともあった」が、一方で立ち去り難く興味深げに聞いてくれる聴衆が少しずつ多くなってゆくことに手答えを感じていました。
上野恩賜公園の樹下石上を家となす決意をしたこの男、中村天風はかつて東京実業貯蔵銀行の頭取、電灯会社や製粉会社などいくつかの経営に携わった実業家で、紳士録にも名を連ねていたが、すべての事業を整理し地位や名誉を捨て、大道説法をはじめたのはいったい何故なのか。
中村天風は、九州柳河藩主の立花鑑徳を祖父に持ち、明治9年に東京北区王子の紙幣官舎で生まれました。上野界隈で幼年期を過ごし、6歳にして御徒町の今泉八郎道場に通い剣と儒学を学び、湯島小学校を卒業しています。15歳の時に福岡の修猷館中学を退学後は、日露戦争前に軍事探偵として満蒙で活躍。帰還した30歳の時に悪性の奔馬性肺結核を発病、当時の最高権威であった北里柴三郎から余命3年と見放され「かくなる上は武士らしく死ね」と宣告されました。
かつて満蒙の奥地軍事偵察をしていた頃は、勇猛で死などまったく恐れなかったが、結核を患いすっかり痩せ細り気弱で哀れな男になり下がってしまった。どうせ助からぬ命なら、どうにかして以前のような頼もしい勇猛な強い心を取り戻してから死のうと思いたち、日本の著名人をはじめアメリカと欧州各国を遍歴し、当代先鋭の哲学者、心理学者、生命科学者、宗教家を訪ね歩きましが、3年の遍歴で知り得たものはごくわずかで、強い心を再生する答を得られませんでした。世界3分の2を訪ね歩いても救われぬ我が身に絶望し、失意のうちに帰国を決意し、桜の咲く国、富士山の見える国に帰ろう、せめて日本の土で死のうと地中海の船上にいました。
その帰郷の途上でたまたま前を行くイタリアの砲艦が、スエズ運河で座礁したため、やむなくエジプトのホテルに宿泊することになり、その食堂で英国王室の招きでヨーガを伝授して帰路についていた大聖者カリアッパ導師に遭遇し、導師は微笑みながら天風をテーブルに手招きして、「お前は右の胸に病を持っているね。日本に死に逝くのか、お前はまだ死ぬ運命じゃない。救われる道を知らないでいるから、私と一緒においで」と、一筋の光が差し出されました。
翌日、導師に連れられ3ヶ月後にヒマラヤ秘境のヨーガの里に入り、3年にわたる言語を絶する難行苦行のすえに命の甦りを果たしました。「もし、あのまま日本へ帰ってきちゃったとしたら、私の今日もある道理がなく、あなた方も私と一緒に喜びの人生を味わうことができずに終わったでしょう。マルセイユを発って2週間、因縁ですよ。どう考えてみても、事実は小説より奇なりであります」と、講演のときに瞳を潤ませながら話す起死回生のドラマでした。
この導師と遭遇した運命の日が、ちょうど八年前に遡る6月8日の朝でした。そうであればこそ、己の命を甦らせてくれたこの日を、大道説法の門出に選ばれたのでしょう。真理に目覚めた者は人を救わずにいられない。導師は天風との別れの際に、「そなたの体験と行法をもって、世の人々を救え。もし困ったことが起きても、もう一人のお前が、それを解決してくれる」と諭しています。
今でこそヨーガは一般に知られていますが、当時の天風はヨーガがなんたるものか、ヒマラヤ山麓のどこで修行しているのかさえ知りませんでした。そのような状況にもかかわらず、優れた導師から本格的な修行をさせてもらい、ヨーガの覚者にまで大吾し、命の甦りを果たしたという事実は、世界でも例のないことでして、しかも導師のヨーガは諸流派のなかで最も精神性の高い教えでした。
こうした偶然が重なり、天風はこれまで密法とされてきた正統ヨーガを、日本で最初に持ち帰った人となりました。これはもう選ばれし者としか思えません。しかし、それだけのことなら一人のヨギー覚者として半生を終えたにすぎませんが、天風は命の甦りを果たして帰国した後、ヨーガでなぜ己の命が再生できたのかと根本原理の探究をはじめ、自身の体験をもとに難解なヨーガ密法を、医学と心理学の幅広い知識から人間が本来あるべき道、命の道を、誰もが日常生活のなかで容易に実行できるように集大成させて行きました。
こうして大道説法をはじめて5カ月ほどたったある日の事、説法を終えて帰り支度をしていたところに、背広姿の一人の若い紳士が、「いつもお話しを聴かせていただいています」と丁寧に挨拶し、「実はお願いがありまして、我々の友人のあつまりに桜倶楽部というのがあるのですが、そこで是非こういうお話をしていただきたい」と、問いかけてきました。
天風は快諾し約束の日に、丸の内の日本工業会館の中にあった桜倶楽部で、政財界の名士を前に三時間の講演したのを機に、「これは大道で聴く話じゃない」と、多くの賛同者と聴衆を次々に得て行くことになりました。
これが後に、財団法人「天風会」に発展してゆき、昭和43年、天風92歳で生涯を閉じる50年間に、直接薫陶を受けた者、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝、文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々、全国のべ百万人に及ぶと『哲人追悼特別号』に記載されています。上野恩賜公園の樹下石上で産声を上げた心身統一法が、大きく生成して行きました。
天風は生前に、「ときどきあそこへ行って、あの石台を見ちゃあ、思わず熱い、胸にせきくるものを感じながら帰ってくるんです」と懐述していました。
その石台は今もなお花園稲荷神社の鳥居前の街灯(東京LA−2-1)の奥に在ります。石台の上に立って周りを見ますと、長く続く桜並木と上野の森美術館から不忍池に通じる道が交差する小さな広場になっていて、路上に桜模様の道案内が描かれています。6月と言えば青葉が茂り、道行く人がその前を通り過ぎて行きます。なんでもない台石ですが、世のため、人のため、日本人の心の復興に生涯をささげたいと草鞋に脚絆姿で仁王立ちした天風の初志を、そのままに偲ばせています。
できることならば、百年の風雪を機に、この石台に銅板で『誠・愛・調和//中村天風/心身統一法発祥の礎石//1919年6月8日』と、記念碑が刻まれることを、心から祈念しています。 合掌
参考文献
おおいみつる「心機を転ず」春秋社
橋田雅人「哲人中村天風先生抄」広済堂
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