我々第一陣のゴーグ村の位置づけは、インド領ないしその国境沿いという認識で出かけました。実際にインド北東の紅茶で有名なダージリンから20キロメートル西方にゴーグ村が在ります。しかし、ネパールの国境を、ほんのわずかだけ越えるためにビザが必要になります。我々は入国検問所で交渉し、1時間以内という特別認可をもらいました。
第2陣はその教訓を踏まえて、1993年4月(平成5年)、ネパールの首都カトマンズから入り、西側からバスで4時間半をかけてピカル行き、そこからさらにジープに乗り換えてデコボコの山道を1時間余かけてゴーグ村に入り、そこにテントをはってキャンプしました。これはたいへん強行な道程ですが、正しいコースの選択でした。
御一行がゴーグ村に到着した日がちょうど彼らの暦で正月元旦にあたり、村人が正装して火祭りと踊りで迎えてくれ、長旅の労をねぎらってくれました。天は時ににくい演出をするもので、天風先生も喜ばれたと思います。御一行は快挙をなしとげました。敬服です。
さて、二昔も前の話しをしてきましたが、ここからやっと本題「双輪の印」に入ります。
御一行はゴーグ村を後にしてダージリンに向かう途中、国境の村マネバンジャングの古寺で偶然にカリアッパ師像と対面したと記しています(「志るべ」平成5年9月号の上の写真)。
私もこの国境の村マニネバンジャングの祠(ほこら)で、たぶんこれと同じ像を見ていますが、これをカリアッパ師と断定するのはどうかなと考えています。断定するにはさらに探究と実証が必要かと思います。
これは私が20年来ず〜と気になっていた事でして、後の天風研究者がこの旅行記を参考文献にすることに危惧を覚えました。行かれたことのない人にミスリードになってしまうことを杞憂しました。
こんなヒマラヤの秘境の麓まで来たのですから、おみやげ話としてでも、この像がカリアッパ師であってくれというドラマにかられる事は、心情的によくわかります。私もその時に同じ衝動にかられまいたし、そうあってくれと願いました。
しかし、この像を見た瞬時に、あくまでも私の直感でしたが、これは違うと思いました。これはラマ僧の導師であるが、カリアッパ師でないと判断しました。もしこの僧の像とラマ僧(志るべ46ページの写真)が同じであれば、51歳(1871−1922)で死去しているわけですが、それは考えられません。それにもしカリアッパ師でしたら赤の法衣ではなく薄紫の法衣を着ておられたかと思います。
私が「ヨーガの里に生きる」の著者、大井満先生にゴーグ村の報告に行きました時、大井先生もかつてこの地に視察に行かれていたようでして、私に「当地の人は平気で作り話をするから、その点を十分に気をつけて考えなさい」と、アドバイスしてくれました。
また、もしカリアッパ師像でしたら、灰皿のような托鉢のお碗でなく「双輪の印」を組んでいるのではないかと推察します。なぜならそれが「印(しるし)」だからです。
天風先生はカリアッパ師からヨーガの密法を究めた後、クンバハカ法と安定打坐の瞑想法を、原型を留めぬまま徹底的に解体し、分析して、独自な方法を創意工夫しました。ヨーガの修行僧でない、在家の私たちでも容易に実践できる方法に組み換えました。私はこの換骨奪胎の創意を、ヨーガの日本化と称し、天風師の偉大な業績と評価しています。
安定打坐の時に「双輪の印」を組みますが、正直なところ双輪の印でなく、どんな印の組み方をしても瞑想に入ることができます。しかし、それでもなお安定打坐の時に「双輪の印」を組むよう指導しています。あの合理的な天風先生が、原型を留めぬほどに解体し、創意工夫しながらもなぜ「双輪の印」を残されたのか。
それはカリアッパ師から教えを請うた「印(しるし)」だからと推察します。つまりは「双輪の印」の中にカリアッパ師が居られるわけで、国境村の祠の中でなく、「師この双輪に御坐す(おわす)」です。
そして、双輪の印を組むことで、カリアッパ師と天風師と私たちが、宇宙霊に中で脈々と繋がってくるわけです。
そんなことで、私はカリアッパ師の追跡は、天風先生が語られた範囲と、「双輪の印」だけでよいのではないかと考えています。