天風会三代目会長、野崎郁子先生の想い出を記してみたい。
私が野崎会長(当時)に、直接ご指導受けたのは、1986年8月、京都の八瀬「養福寺」で開催された、西部地区合同による夏期修練会の時でした。そして、このご教示が最初で最後のものになりました。
この時の野崎会長のご講義は、天風先生の生身そのままの人柄を、少しでも多く後進の会員たちに伝えておきたい一念のものでした。会員もまたそれを期待していました。
今になりますと何のお話しをなされたのか、記憶も薄らいでしまっていますが、一つだけ強烈に残っています。まだ新幹線のない時に、天風先生に同行して東海道線に乗り、関西地区へ向かう列車の中で、天風先生が講演の練習で、口角に泡を飛ばし窓ガラスが唾でいっぱいになったというお話しでした。
その時、天風先生の名講演、さりげなく粋で、立て板に水の如くに話されるご講演の舞台裏をのぞいたような気持になりました。あの天風先生にしても、講演の前には真剣に練習をなさっていたのかという、敬意と驚き半々でお話しを拝聴しました。
修練会の総仕上げ最終コースは、参加者の心が澄みきったところで、野崎会長ご指導による恒例の精神能力開発、テレパシーの実体験になってました。
野崎会長は天風先生の愛弟子として、特別にきびしい薫陶を受けられました。厳しさに涙を流しながら熱心に修行されていたこともあり、傍から見ていた会員が、あそこまで厳しくやらなくもいいのにと思われたといいます。
こうして天風先生に徹底的に鍛え上げられ、研ぎ澄まされた、すさまじきテレパシー能力は、達人の枠を超えて超人に成られていました。そして会員の間では、テレパシーと言えば野崎先生という代名詞のようになってましから、テレパシーにまつわる逸話がたくさん遺っています。
テレパシーの模範実習で、野崎補導が(当時)が、箱の中にあるタバコの本数を言い当てることになりました。その時会員がふざけてタバコを半分に切って箱に入れて置きましたら、果たせるかな、タバコの本数+半分まで正確に言い当てられたとのことです。また、若かりし頃、「見知らぬ男が恩師に透視の試合を申し込んで来た。恩師は、興行師ではないと即座に断られたが、どうしてもその男はしっこくいってきかぬ。そばにいた野崎さんが、『あなた、あなたの財布の中には十円札が一枚ありますね。その外に、これこれのお金が入っていますね。』とはっきりあてて、その男を煙にまいたとのこと。その時恩師は、時間がかければ、十円札の番号だってわかるのだよと、つけ加えられた。」(森本節躬著「心の力」)
ですから、野崎会長によるテレパシー実習は、天風直伝の法術として修練会の大きなイベントになっていました。この日のテレパシーの実習は、 野崎会長から思念で送る数字を、私たちが安定打坐をしたままで感受し、その数字を当てるというものでした。たしか10回ほどやりまして、私は2つか3つ当てただけでした。私は向こうっ気だけが強いものでして、自分の未熟さを棚に上げて、野崎会長もお歳をめして、思念力が弱くなっているな〜と、手前勝手な自己弁護をしていました。
この実習を最後に2泊3日の修練会が終了し、お礼とお別れのご挨拶に、野崎会長と握手を交わしました。私の手を厚くて柔らかい両手で軽く握り、こちらの目を見つめた瞬間、雷光が閃くが如くに、野崎会長が私に何を思念したかがはっきりとわかりました。勿論のこと、野崎会長も私の思念を読まれたと思います。あ、これがテレパシーというものかと、貴重な体験をさせてもらいました。
野崎会長が無言の内に話されたことは、私の秘め言になっています。そしてまた、この思念が、私が天風道を継続する大きな原動力になっています。人生のおける一閃のできごとでしたが、すごいお方でした。
補記;
一年半の後、昭和63年1月3日、野崎郁子会長は御帰霊なされました。享年91歳、師の行年92歳を越えることなく、慎ましやかに逝かれました。病床あっても「夢うつつのなかで、天風先生の声が、ねえ、聞こえてくるのよ」と言われたという。誰よりも天風会を愛し、一生を捧げた「天風一代女」、最期のお言葉が「みなさん有り難う」だったとのことです。(甥、沼田照述)。
私は天風会葬に参列できず、遠くアメリカからご冥福を、お祈り申しあげた次第です。