国際人とはどういう人なのかと考えてみました。
何かの本で読んだが、外国での生活に入り込むには、その国の床屋で散髪してもらい、床屋談義を聞きながら店主の口角から飛びちる泡の洗礼を受けることだとあった。
そんなもんかいなと思いながらも、私は海外生活が40年にもなるというのに、いまだに日本の理容室でヘアーカットし、毎朝ご飯みそ汁、着ている下着といえばすべて日本のものとなってます。三つ子の魂なんとやらで、知らぬ間に憶えた日本理容のきめ細やかなサービス、ご飯と醤油味と寿司、下着の肌触りから脱皮できずにいます。いわば国際人とはほど遠いローカルな日本人です。触感覚に刷り込まれた習慣はなかなか替えられないものです(変える気もないが)。
それでも私が「自分も国際人になったな〜」と実感したのは、中国出張の折、時間がなくて日本に寄れず、ニューヨークから成田経由で香港へ飛び、そのまま香港から成田経由でアメリカへ帰って来た時でした。成田の上空から母国を眺め、世界で一番好きな国に寄れないさびしさを感じたものです。
私はここ20数年、年にアジアを8往復、EU諸国を2往復、南米1往復のペースで出張していますが、中国へ行ったら中国の面子基準で付き合い、ヨーロッパに行っても身構えることなく文化的に付き合い、民族の坩堝アメリカではそれぞれ民族の出自に合わせて民主的に付き合い、世界のどこでもあるがままに自然体でやっています。
いわゆる国際人とは、自国の文化体系と価値基準をもって、相手の文化体系と価値基準を尊重し、そこに共有できる文明基準を設定して交流してゆくトリプルスタンダードを、知識と経験から身につけているリアリストと考えています。
これは私がいつも言っていることなのですが、「強烈な日本人たることによって、立派な国際人に成り得る」ということです。世界に開かれたナショナリズムとはこのことかと思います。
ナショナリズムを飛び越えていきなりグローバリズムへ行くのでなくして、オープンでアクセス可能なナショナリズムを通してのグローバリズムであるわけです。
私も尊い、あなたも尊い、両者の調和はさらに尊いわけです。このどちらかが欠落すると、根無し草の異邦人になったり、排他的な民族主義になってしまいます。
中村天風は、明治期に世界各地の精神遍歴を通して、先駆的な国際人の原型を形成しています;
「私は外国であらゆる階級の人に会いました。猛烈な国家主義者にも会った。それから猛烈な社会主義者にも会いました。コミュニストにも会いました。アナキストにも会った。けれども彼らの主義に、いくら彼らが熱心に口角泡を飛ばして話しても感激は感じなかった。私が感激を感じたのは、国籍が違い、民族が違ってもただ一つ変わらないものは、人の真心であります。親切であります。人というものは主義に活きているのではないのだ。どこまでいっても真心一本だと思ったのであります。」
「一遍外国に行って困ってごらんなさい。一遍外国に行って困って親切にされると、地球上に活きる民族に、仮に人間たちが観念の上から人種の別をつけ、国籍の別を創っても、人という生命の活きる存在はおなじことだということに、すぐに気がつくのだ。気がつけば直ちに、主義なんていうことは人間の観念の中の遊戯だということに気がつくのであります。
人の世に 右も左もなかりける 真中ひとすじ 誠一本
(「正義の青年」昭和41年講演)
こうした思いは、いま流行の人権思想ではなく、キリストにおける「隣人愛」に比する、地球上の民族はすべて同じ人間ということを基底にした、「人類愛」とでも称すべきものなのでしょう。