真理瞑想行修 1992年(平成4年)
テーマ:『創造的人生』 杉山彦一元会長
「創造する宇宙」
「創造する生命」
「創造する人間」
「創造する宇宙」
宇宙ー生命ー人間を、少し眺めてみただけでも、不思議に思えてならないことが沢山あります。
私は最近この大宇宙の創造性に対しまして、思わず手を合わせたくなるような気持ちで感謝するようになりました。
物理科学は対象を冷ややかに見つめ冷静にそれを観察し、そのものズバリを言えばいいわけです。哲学はその事実に立つて、それを意義づけをして行きます。
現象を理解する時、外面からの科学的な態度と、内面からの哲学的な態度の両面から把握して行くことによって初めて本当に理解することができます。
これから不思議と思えてならない大宇宙の創造という大テーマを、科学と哲学の両サイドから見て行きたく思います。近代的な科学性をもったみなさまの頭脳と純粋な感性とを信頼しながらお話を進めたく思う。
1969年、日本時間の昭和44年7月21日午前5時17分、世界の人々の興奮と緊張の眼差しを集めたアポロ11号「イーグル」は、ついに月面着陸に成功しました。人類史上初めて人間が月面「静かな海」に降り立った劇的な一瞬でありました。
地球から月までの距離は38万4400Kmでありまして、この距離をアポロ11号は軌道をグルグル回りながら行きますので4日と6時間かかりましたが、もし直線で行きますと70時間で到着できます。またこれをジャンボジェットで行きますと16日、新幹線ひかり号の時速200Kmで行くとしたら80日かかります。現在一番早いと言われます光速や電波の秒速30万Kmで1.3秒です。光や電波的なスピードでみますとそれほど遠い距離でもないのですね。
これを太陽との距離でみて行きますと、地球から太陽まで距離は約1億5千万Km、アポロの時速で5500Kmで約3年、ジャンボジェットで約17年、新幹線ひかりで約85年で到着することになります。光や電波で8分19秒ですから相当の彼方にあるわけです。
その太陽は直径が地球の108倍で、約140万Kmもありまして地球が130万個入ってしまう巨大なものです。表面温度が6000万度、内部が1300万度といわれるガス体で、一刻一刻と水素からヘリウムへと核融合し続け、1分間にざっとダンプカー4000台分の石炭を燃やしているのと同じ巨大な原子炉となっています。
そこから発せられる光と熱によって我々生物がこうして生きていられるわけです。考えてみればこの不思議なことが、すでに約50億年前から燃え続けていると言うのですから大変な事であります。しかもこの太陽と同じようなものが、銀河系にさらに1000億個もあると言われていますから、これはすごい事ですね。
この銀河系に中に白い帯状をなす天の川は、数百億個の恒星の大集団があります。中国ではこの天の川を挟んで牽牛
の彦星と織姫星という七夕伝説をこしらえましたが、天文学的に言えば、この彦星はワシ座のアルタイルという星でして地球から16光年、織姫星はコト座のベガという星で26光年の所にあります。そして、彦星と織姫星の間がまた16光年と言いますから、二人が会うのは1年に1回どころか、光速だけで16年かかってしまう計算になります。光や電波は秒速30万Km、1秒間に地球を7周り半すると言われてますから、この速度で1年間走り続けますと9兆4600Km走ることになり、天文学上でこの1単位を1光年としたわけです。ずいぶん大きなモノサシがあったものです。
この天文学的なモノサシで銀河系を測ってみますと、直径が10万光年、厚さが3万光年でして、ちょうどラグビーのポールを押しつぶしたような円盤状をしています。この銀河系も2000億個の恒星の大集団をひきつれて自転をしており、そのスピードは中心から3万3千光年離れた太陽系のあたりで、秒速250Kmというものすごいスピードで回転しているのにもかかわらず、一周するのに2億5万年かかると言われています。
私たちはこの銀河系に所属していますが、これと同じ様な銀河が隣にもまたその隣にもありまして、遠くから眺ると雲のように見えることから星雲と言われたり、また大海原に浮かぶ島のように見えることから島宇宙と呼ばれています。そして大宇宙の中には1000億個という島宇宙が散らばっているとされています。銀河系のお隣の大マゼラン星雲団までの距離が17万光年、なんと光で17万年走った所にあります。聞きなれた隣人の強大な銀河であるアンドメダ大星雲はなんと210万光年も離れたところあります。すごいものだと驚いてはいけません。おとめ座のソンプレロ星雲は4000万光年彼方にあります。
これにも驚いてはいけません。ペルセウス座星団は1億8千万光年の彼方、まだまだ驚いてはいけません。ウミヘビ座星団は33億光年、ウシカイ座というグループは35億年も彼方と言われています。現在最も遠い天体といわれていますクエーサーはなんと約130億光年とされています。しかもまだまだ宇宙の果てはわかってません。観測機械が発達すると、その機械で見えた範囲が宇宙の果てと呼ばれています。
これだけみても大宇宙はすごいものだという事がわかるでしょう。この大宇宙を創造したものは誰たい。鹿島建設でも大成建設でもない人力をはるかに越えた大自然の動きだというほかない。大自然は誠にすごいものだと言うしかありません。この大宇宙の中には、ただただ目をみはるばかりの創造性があるということを、みなさん方は改めて確認した事と思う。
(参考:地球から一番近い恒星は4.3光年、生まれた子が幼稚園に入園。地球から一番明るい星、おおいぬ座のシリウスが8.7光年で小学3年生。北極星が800年で平安時代、おうし座かに星雲が3400光年で古代エジプトの時代。ヘルクレス座星雲が2万1000光年でマンモスのいた氷河時代、アントロメダ座星雲210万年で人類の誕生。ペガスス座 星雲1億3000万光年で恐竜の時代となっています)。|
さてその大宇宙ですが、今世紀の初めまでは静かなものだと考えられていました。相対性理論のアインシュタインにしても宇宙は静かなものだと考えていたようです。それが観測技術が発達してそこからとらえたデータから判断すると宇宙は静かなどころか極めてダイナミックで活動的であることがわかってきました。活動する宇宙、それも激しく活動する宇宙、星の中では強力に電波を放射しながら、非常の速さで遠ざかって行くクエーサーといわれる超新星や、とても新しい星がいくつもあることが発見されて来ました。そして、これを契機にして宇宙の様相はガラリと変ってきたのであります。
1929年、カルフォルニアのウイルソン天文台でエドウィン・ハップルが、100インチの望遠鏡を使いアントロメダ星雲と地球との距離を正確に測ろうとして、何回も何回も測ってみたところ測るたびに誤差が生じてくるので、これはいったい何故だろうと分析した結果、アントロメダは地球からだんだん遠ざかって行く事を発見しました。しかも、遠くにある星雲はなんと毎秒115Kmの速さで遠ざかっていました。大宇宙は静かどころか膨張していることがわかりました。大宇宙は広がりつつあるという、この偉大なる発見は20世紀の知的革命の基礎になりました。この観測計算で行きますと大宇宙は10億年ごとに5%から10%膨張することになるわけです。また今度はこのどんどん遠ざかる各星雲の線を逆行して元の方向に戻して行くと、各星雲の距離はだんだんに縮小されてついにはゼロになるところから、どの星雲も一つの所へと集約されということもわかってきました。と言うことは大宇宙の各星雲は最も初期の段階では一点であったということがわかり、それが一気に大爆発して以来、宇宙の彼方に向かって飛び散り続けている事とが解明されました。この巨大な爆発を「ビックバン」と言っています。各星雲が地球と比例して遠ざかっていることや、現在観測されていますヘリウムなどの軽い元素の存在は、星の内部の原子核反応で考えたのでは説明がつかないことなどから、どうやらこのビックバ ン説がかなり間違いのないものとして有力説になっていま す。
しかし、ビックバンの理論はまだ完全に完成しているとは言えず、物理学者は量子力学、相対性理論、不確定性原理という角度から数学的にこれを解明しようとしています。ビックバンが非常に高温であったと想像されることは、粒子が非常に速く動いていた事、強大な核力が働いていた事、大きなエネルギーがあったことを意味し、全ての宇宙がビックバンから始まったとすれば、宇宙の空間も時間もそこから始まったと考えるしかなくなります。現代の宇宙論はビックバンという大きな問題にぶっかっており、これをどう解釈し乗り越えて行くかは天文学者あるいは物理学者の大きな課題になっています。
(参考:カー ルセー ガンは大宇宙の年齢と出来事を、一年間に置き換え てわかりやすく言っております。ビックバンが1月元旦、2月に最初の星 雲ができ、4月に我々の銀河系が誕生しています。太陽系は9月9日に出現、14日に地球誕生、25日頃に生命誕生の準備が整い、10月16日頃、最古の生物が出現、12月になって大気中の酸素が、1900年に魚類、23日には爬虫類、ついで26日には哺乳類、31日の午後10時30分頃ついに人類が誕生したといっています。この例えで行きますと人類は「行く年くる年」これから新しい春を迎えようとしていることになります。人類は原始の時から黙示録的に上方への意欲をしめし、それが二本足で立ち上がる力となり、頭上の宇宙を見上げて天なる神を発見し、さらに天上への意志は哲学と芸術と科学を発達させて行きました。人間の進化はその根源的生命をなした大宇宙への回帰が、天上への意欲となって創造的進化を実現させてゆきました。地球は広い、その広さよりも宇宙はさらに広い、そしてその宇宙よりもさらに広いものを、人間は心のなかに有している)。
この大宇宙に対して、昔の人はさまざまなことを考えていました。我々の大先輩の古代の人々は、まだ科学者とも言えぬほど科学が発達していなかった頃からいろいろな議論をしています。もろもろの学説を、今からみれば幼稚のものもありますし、これはなかなかの卓見と耳を傾けさせられるものもあります。学問の発達したギリシアではさまざまな学説が提起されています。ギリシアの植民地イオニア地方に始まるミネトス学派といわれる哲学者グルーブがありました。紀元前6世紀の頃と言うのですから、日本はまだ文化らしい文化もない頃です。彼らは「宇宙の始まりはなんだ」と、いろいろなことを考えていたようです。なかでも代表的な思想家で哲学の祖といわれていますタレスという人がいました。当時は宇宙の創造というものは神様のお力であるといういわば神話的なものが中心でありましたが、クレスを中心とする学派は、神様ということは言わずに物質が根本だという考え方をしました。しかもその物質も単なる物質で はなく活動し成長する可能性をもった物質、いわば物が活動するという宇宙には種があったのだとする「物質論」の考え方をしました。ミネトス学派は宇宙の始まりの「種」を万物の根源たるものとして「アルケイ」と名ずけていました。これ以上還元できない原初的なものという意味です。そしてこの始まりの始まりも大宇宙の根本をなす物質を、タレスは「水」であるとしました。タレスは「水」が宇宙の創造の根源とみていました。アルカシメデスという哲学者はこれを「空気」だとしました。「空気」というものが薄く結合すると水とか雲になり、濃厚に結合すると土とか石になるが、その根源はみな「空気」であるとしました。現代からみれば大変幼稚な学説のように思えるが、彼らは真剣にそう考えていたようです。ヘラクレイトスという哲学者は、万物は流転すると考えまして「一切のものは変化する」その変化の根源は「火」であるとしました。一切の物が変転するのは、根源に「火」があるからとしました。エンペドクレスという学者はこれを「地、水、火、風」という四元素説の多元論をとなえています。
この四元素が結合したり分離したりして一 切のものができると考え、しかもこの結合と分離をなす力が、何にかというと「愛と憎しみ」だとしています。物理学の中に人間の感情を入れ込んでいるところが面白いですね。宇宙空間に愛の力がみなぎると世界は平和になり、憎しみが満ちると世界は破滅に向かう。現代社会でも流行しそうななかなか面白い学説をとなえたものです。いろいろな学者がいろいろな事を言うものですね。ギリシァ時代の紀元前によくもこんな事を考えたものだと思います。
このエンペドクレスの四元素説はアナクサゴラスからレオキッボスを経てデモクリト スの「原子論」へと引き継がれて行き、これらの学説は最終結としてデモクリトスの「原子論」に集約されました。古代物理学の完成者はこのデモクリトスと言えましょう。彼は一切物質はこれ以上に分離できない「アトム」というものから構成されていると考え、アトムは不生不滅のものであるとしました。これが大宇宙の究極の要素であり物質の多様性は、このアトムの動きによって決ると彼は主張しました。それでは「この大宇宙はどうして出来たのだろう」というと、無辺の広大な宇宙空間の中でアトムの運動の結果として大きな渦巻きが発生し、そこから必然的に天体が生じたのだというのがその説ですね。後にこの思想がカントラボラウスの星雲説、あるいはブルノーというドミンコ会の憎侶の大胆な説に発展しまして「神や霊魂さえもアトムから構成されていて、万物はアトムの動きによって決るのだ」と主張したことにより、彼は1600年に火あぶりの刑に処せられてしまいました。「アトム」の世界観は完全に唯物観の立場にたち、世界の原初は必然性によって支 配されていて、そこには目的性はないとしました。
以上のように、古代ギリシァを中心とした宇宙論の中身をみてきましたが、それではこれから現代の人は宇宙をどのように考えてきたかを見て行きたく思う。「アトム」という言葉は現代でも使われていて、もうこれ以上には分割できない不分割のもいうギリシァ語であります。しかし、この分割できないとされてい た「アト ム」が、 現代において分割されてきたのであります。そして原子というものは中心に原子核があり、その外側を原子が回っていて、原子核には陽子と中性子とがあるということがわかってきました。だが陽子と中性子がどうして結び付いているかがわかりませんでした。1934年に日本の湯川博士が「陽子」と電子を結びつけているものがあるとして、それは電子の200倍の重さをもったもので、陽子と電子の中間の重さであることから、中間子と名ずけたい」と予言しました。かくして3年後アメリカの宇宙船の中から電子の200倍の重さの新粒子が発見され、予言通りに「中間子」と名ずけられました。1994年に湯川博士は日本人で初めてのノーベル賞を受賞しました。
こうしてこれ以上には分割できないはずのアトムが、次ぎから次ぎにと分割され新しい粒子がいくっも発見されまして、現在では150種類以上になっているそうです。今度はこれらの分割された新粒子をどう説明したらよいのかがテーマとなり、1964年カルフォルニア工科大学のMベルマンとGシュワイクが一っの理論で説明を試みて「クオーク理論」を提起しました。この学説は有力なものとされていますが、クオークを更に追求してゆくと6種類のクオークに分類されてきました。これが更に電子に近いレプトンというグ ループがまた6種類発見されました。どうやら素粒子の理論はクオークが6種類、レプトンが6種類の12粒子グループになるようでして、これを更にどう解釈したらよいかと世界の学者がここに頭脳を集中させました。これらの粒子グループを分類してみると、相互作用の強いグループと弱いグループ、電磁気の強いグループ、重力に対する反応が違うグループの4っの主だった性格に分類されました。今度はこの性格をどう説明したらよいかをさらに追求し、アメリカのハーバード大学ワインバーグとバキスタンのサラムが、これをうまく説明する「統一理論」を打ち出しました。どうやらこの理論で半分はうまく説明できるようでして、1979年にノーベル賞を受賞しました。しかし、これでもまだまだ説明しきれないものを、さらに完全に説明しょうとしているのが「大統一理論」であります。その大統一理論からニュートリノの出量はいったいなにかということで「超統一理論」が進められたり「超重力理論J 「超ひも理論」が打ち出されたりしているようです。我々の知らない世界ですけれど、物理学者は懸命に大宇宙の原初の真理に近ずこう、近ずこうとして日夜研究を続けているようです。ずいぶんと難しい世界があったものですね。
さて、そこで重大な問題に入ろうと思う。どうやら大宇宙を観測してみる とビックバンがあったということは認めざるを得ないようです。ビックバンの物質はなんであったかは、当時の記録はありませんので推測するしかないわけですが、このビックバンをどう説明するか、これに解答を与えようとしたのが、かのクルマ椅子の天才といわれるスティーヴンホーキングであります。ここでホーキングの宇宙論を簡単に述べておきたく思う。 彼はいったいこのような観測的事実と細かい物理学のデ ータの上に立って、ビックバンをどのように説明したのでありましょうか。彼はするどい頭脳の持主ですから、もし宇宙に始まりがあったとするならば、それを創造したものとして神様の手を惜りなければならないとするのならば、宗教になってしまい物理学ではなくなってしまう。宗教の手を借りなくても、物理学は物理学で解決していかなければならない。もし神様がお創りになったとしてしまえば物理学の敗北になりますから、彼は現在まで累積された物理学のデータを駆使しながらビッ クバ ンを解明しようと試みているわけです。
ホーキングは宇宙は宇宙で自己充足があると仮定し「宇宙の始まりと宇宙の終り」という概念をとっぱらってしまおう考えました。そうすれば別に超自然的な神様の手を惜りなくても宇宙は説明できるとしたわけです。ホーキングは宇宙の始まりに対して量子理論を適用して考えまし。そうして行き着いたものが虚時間という考え方でした。彼はなぜ虚時間を考えたかと言うと相対性理論が考えている宇宙の始まりという仮定を避けるためでした。そして虚時間は空間の方向と同じになり、時間と空間は全く同様 に扱われることになったため時間にも、初めも終りもないと考えました。結局、時空は球面のように有限で自己充足的なものとなりうるものであるから、時空から境めを取り去ることができ、境めがなくなれば境めの条件も考えなくてすむと説きこれを「無境界の境界条件」としました。またホーキングはこれは事実かどうかということは問わない、問題はこれで有効に説明できるか否かであり、事実がうまく説明できれば、観測的にとらえられない抽象概念でも許されると言っています。結局、彼の宇宙論は「宇宙の始まりは時間と空間の区別がなく、時空の構造は時間と空間を同じ立場で含んだ四次元の閉じた空間である」としました。時間は虚としてありますので、宇宙の始まりも消滅してしまうものであります。我々ではとても考えないことをホーキングは考えているようです。ずいぶんと難しいことですね。みなさんはわからなくていいから「ずいぶんと難しいことを考えるものだ」という事を知ればそれでいいです。彼は別に神様を登場させなくても宇宙の始まりを説明できるとしたのは、それは神の否定ではなく物理学だけで説明できるもので、神を登場させるまでの必要もなかったからだとするものです。
しかし、ホ ーキングは「私は人格的な神を信じておりません。強いてあなたがたが望むなら、 神は物理学的法則を体言したものとお考えになってもよいでし ょう」 と言ってもいます。私は天風先生がかって「神というものは法則視せよ」と、相当強く言われてましたことをよく憶えています。神を人格視すると言うことは「こんなにお賽銭をあげて拝んでいるのだから、もうそろそろ幸せをくれてもいいでわないか」という様な取り引きみたいのになってしまいます。そうではなくて神を法則視せよとは、厳然たる法則が宇宙の中にあるのだということで、天風先生は「神は法則の鎧を着ている」という言い方をしたことを憶えております。
ホーキングは面白い表現をする人でして、宇宙はなぜ存在するかという 問いに対して「もしそれに対する答えが見いだせれば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう、、なぜならそのとき神の心をわれわれは知るからだ」と言っています。彼は宇宙はなぜ存在するかという問いには解答をしておりません。彼はわれわれみんなが宇宙における人問の位置ずけを、より一層理解するように努めなければならないと言っていますが、同時に大宇宙の中での人間の位置や価値ずけは物理学でなく哲学がやることですと言っています。彼は神の力を借りることなく「万有引力の法則」「一般相対性理論」「量子力学理論」j「不確定性原理」を駆使して、宇宙の最初の所を説明しきろうとした訳です。彼は宇宙論から神様を追い出しながらも、同時に自分自身の理論の限界をも心得ているようでして、宇宙がなぜ存在するか、これは物理学の問題ではなく哲学の問題であるから、物理学者としては答えはないかも知れません。「もし答えが見いだせたとすれば、我々は神と同じだけのものを知ることになるでしょう」と言っています。彼はこの問いに対する哲学からの参加を呼びかけているようです。彼は物理的な観測や理論に限界のあることを認めて、宇宙論というものは科学者の研究と哲学者の思索によって進められて行かねばならない重要なテーマであるとしています。
どうやら大変な議論になってきました。これまでの議論はすべて宇宙の根本は物質であるとする立場に集約されています。しかし一方では、古代から宇宙の根源は物質ではないとする哲学も存在していました。このような人の中にピタゴラスがいます。「ピタゴラスの定理」で有名な彼は、ミネトスとはそう遠くないサモス島の出身で、ペルシャ軍のイオニア侵攻の難をさけて南イタリアのクロトという所へ移住し、そこで宗教教団を組織して活動していました。彼はその教団で罪深い人の魂を浄化するには数学と音楽と天文学が必要であると考えました。弦楽器で音が出るその振動数の比が整数になっている時には快い気持ちになる協和音であり、その比がよくない時には不協和音になっているとしまして、宇宙それ自体は調和のとれたものであるとしました。調和とともにあるものは数であり、数と言うものは素晴らしいものであり数には神聖があるとしました。また最初に地球が円いものだと言ったのもコスモスを宇宙の意味で使ったのも彼でした。すでに今の太陽系に近いものを考えていたようで、数を持ち出して宇宙には調和がなければいかんと考えていました。なかなかこの人は現代にも通じる面白い着想をもった人だということがおわかりいただけると思う。
彼の次ぎに出てきた人は、ギリシァ哲学の最高峰といわれていますプラ トンでした。紀元前427年頃、アテネに生まれた彼の宇宙観もけっこう面白いものです。宇宙感覚の世界は見える世界で「可視の世界」と超感覚の世界これは見えない世界で「不可視の世界」とに分け、不可視の世界を「イデア」と称しました。そしてこのイデアの世界をとらえるには純枠思考しかないと言っております。禅宗の言い方にそくりですね。天風先生のお考えの中にも、これと類似したものがあります。「およそ現象世界にその生命を生かしつつあるものは、何れもすべてが「見えざる実在の力」に依ってその命が保たれているのである。
このプラトンに次いで哲学の世界では、彼の双璧とされていますアリストテレスの哲学もまた面白いですね。この人は本来が生物学者でしたから、生命というものを非常にしっかりとらえています。生命体においては組織の各部分がかってに振舞うのではなく、生命体の全体性をなりたたせ生命体のプランや目的にうまく沿うように機能する「生命には全体性がある」と主張し、宇宙もまた一つの巨大な生命体であると説いています。そしてそこで行われる諸々の出来事は全てあらかじめ決っており、その計画にもとずいて進行していると「目的論」をとなえました。彼のこの「目的論」に真っ向から対峙するものが、先ほどのデモクリトスの「原子論」になるわけです。無限の空間の中を自由自在に無目的に飛び回る原子が全てを決めるのだとする「原子論」に対して、宇宙空間の出来事はあらかじめそこにストーリーがあって、その目的にそって動いているとするの「目的論」と真っ向から対峙する哲学でした。このデモクリトスを中心とする 「原子論」は 、そのまま現在の原子論へと流れていま す。
さあ、ここでだんだん結論へとおし進めて行きます。なぜ私が長々とこ んなことをクドクドとうんざりするほど申し上げ、またこれからも申し上げるのか、いろんな学者先生がいろんな事を言っていますが、ではいったいどうすればいいのか。私たちは結局、どの先生が何を言ったか、ああだこうだと学説はいろいろあるけれども、ではいったい私たちは何をよりどころにして生きればいいのだろうか、我々は学者ではない、学説より もどう活きるかというところにポイントがあり、そのために学んでいるわけです。いったい「我々人間は何をするためにこの地球に来たのか」、いろんな学説、実験データ、実証もいいでしょうが、では「いったい我々はどう活きたらいいのでしょうか」、この問いに対して科学は今日も究極を追求していますが、「なるほど」とうなずける程のセオリーを打ち出せずに、どう活きたらいいのかの問いに答えておりません。したがって学説だけに留まり心を動かすまでになっていません。
ここから哲学が始まるんですね。我々は私たちの活き方をしっかりと価値ずけてくれる、確かな宇宙観、生命観、人間観が欲しいわけです。私も学生時代からいろんな哲学を学らんでみましたけど、私を支えてくれるもは無く、さりとて自分から考えようとしても、それほどよい哲学が浮かばない、迷いに迷った日々がありました。それらの模索のなかで見事に究極的に合点を得たのが天風先生の哲学でした。
これまで見てきたように大宇宙の一番の根本は何か、いろいろな先生が学説を披露しています。宗の儒学者はこれを「先天の一気」としています。気はエネルギーですが、この気はエネルギーの根本エネルギーの意味でして「気」は科学と哲学との橋渡しをする面白い言葉だと思う。アリストテレスはこれを、一切の根本の「第一原因 」とし、カントは「実在」、ヘーゲルは「絶対」、ヤスベレスは「包括者」、天風先生は「根源的実在」「根源主体」ということをしばしば申されました。禅ではこれを「無」と表現し、無はないの意味でなく「見えざる実在」という意味です。大乗仏教、特に般若心経では「空」です。空とはカラッポという意味でな く、数字ていうゼロの事で「一切の本源」の 意味です。これら哲学でい う「先天の一気」「第一原因」「実在」「絶対」「包括者」「無」「空」「根源主体」等の用語は、みんな同じ感じのするものです。宗教ではこれをやさしくとらえて行き、ユダヤの宗教においては、一切を創つたのは造物主でこれを「エホバ 」と敬称し、それを改革したイエスは、さらに身じかに引きよせて「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、イスラム教では 「アラー」、ヒンズー教では「宇宙霊」、神道では「天照大神」、現代宗 教では「大生命」という言い方をしています。天風先生はこれらを包括して「大宇宙の根源主体」と言いました。しかし先生はただ堅い言葉で処せられただけではありません。「大宇宙の根源主体は、宇宙空間にただほっねんと座しているようなものでなく、その働きはまさに活発に天地に満ち満ちている」、根源主体は溌剌と動いているのだという、この把握の仕方が天風先生らしいみずみずしさだと思う。
「根源主体は巨大な力と叡智とを持つ」、太陽はすごいエネルギーを持つ、この太陽と同じ物が銀河系だけでも1000億個あるという。すごいものですね。宇宙はエネルギーのシンボルであると言ってもいいくらいです。大宇宙の中には巨大な力が存在する、大きなものは太陽から、小さなものはアトムに至るまで、アトムは1cm平方に1憶個も入ると言いますから小さいですね。そのアトムが爆発すれば広島、長崎の街が壊滅する。 そのような力を誰が封じ込めたか、自ずから然りネイチャーです。大自然と言うものはすごいことをなさる。そのすごい力で一切を創造していることになります。しかも大宇宙の根源主体はすばらしい測り知れない叡智をも持つ。冬の雪、雪は見事なまでに結晶していますね。素敵なデザインです。 どうしてあのデザインを考えたのかと不思議に思う。植物の花を見れば、その背後にすばらしい叡智が輝いている。花は科学者であり芸術家でありデザイナーだと思う。動物でも孔雀の羽は美しい。お蚕は植物繊維を食べて生糸という動物繊維を吐き出すのですから手品師の様なことをやってのける。人間の叡智はこれは言うまでもなく過去100年、200年の間に示した叡智はすばらしい見事なものだ。
しかも、その力と叡智はけしてデタラメではなく厳粛なる法則性を持って活躍している。この法則性をとらえて行くのが科学であり、人類はその法則の通りに宇宙に飛びだして行き、そしてまた帰って来た。ということは、この宇宙空間はデタラメではなく法則性が存在するという事である。この力と叡智を法則的に使いながら、この大宇宙はなにをしているかというと、絶えざる創造活動をしているのであります。
これが今回のテーマです。宇宙空間に働く根源主体は、けして遊んでいるのではなく絶えざる創造活動している。そして、それをどうするかと言えば、進歩と向上の方向性に向かっています。人類は物の進化、生命の進化、人間文化の進化、より良く、より正しく、より清らか、より美しく、より便利にと懸命に懸命に創造活動を続けている。大宇宙はその方向性に向かって動く、そして一切を大調和あらしめようとしているのであります。高気圧が低気圧に流れ、水が高いところから低いところへ流れるように、大宇宙は常にバランスをとる方向に向かっている。「大宇宙の根源主体は巨大な力と測り知れない叡智を、法則的に使いながら絶えざる絶妙な創造活動をし、進化と向上の方向性に向かって、一切を大調和あらしめようとしている」と、天風先生は厳然と我々に教えられた。
この天風先生の宇宙観の特徴をなすものは、先ずその根本に科学性があると言うことです。現在の科学が捉えたものを、常に常にご自身のお教えのなかに取り込んでおられました。科学の基本に反するような哲学ではどうにもなりません。物理学や生理学の用語を哲学用語として使われておりかつ、その哲学も科学的な知識が基本となっているからこそ、我々は先生お教えに新鮮な魅力を感じました。
また先生のお弟子さんのなかには、原子力科学の第一線で活躍している方々も、先生のお教えを素直に聴いておられました。天風先生の宇宙観に科学性があったと同時にまた哲学ですから当然そこには哲学体系がありました。天風哲学は宇宙の根源位置を説明するのに、根源主体、実在、絶対、無、空などの用語を、こだわりなく使われており、神と言おうが仏と言おうが、根源的実在と言おうが、みな同じことであると言われていました。そして科学が言い得ない事、ホーキングが一歩さがって触れなかった、「人間は何のためにこの地球に生まれて来たのか」の問いかけに対して、天風先生は堂々と一歩も二歩も前に出てお教えくださいました。天風先生は「大宇宙の創造的働きによって私たち人問は生まれでてきたのである。大宇宙の根源主体は創造活動をしながら進歩と向上を実現しようとしている。これこそ宇宙根源主体の大いなる御わざである。それを理解し自覚して、それに積極的に参加して進歩と向上を実現して行くことが、私たち人問に与えられた使命である」と、はっきりと断言されていました。我々人間を非常に価値高く評価なされ、人間存在の意味ずけを明確にしております。人間は断じてこの世に罪滅ぼしのために生まれてきたのではないと言い切っております。
また、こうした天風哲学は多くの哲学者が行っているような観念的哲学ではありません。ノリとハサミで貼り合わせて造ったような哲学てはなく、血を吐きながら、自分の全生命をぶっけながら、自ずからそこに編み出してた哲学であります。ですから当然の事として(血の通った)実践哲学になって行きました。天風先生は常に「どうするんだ」「どう生きるんだ」「そんなこかと言ってるうちに死んでしまうぞ」という、迫られた緊張のなかに身を置き「どう生きるか」という問いかけに、常に挑戦させらていました。こうした生き方が我々にびたりとするわけです。我々は余裕をもった観念哲学を、いまさら勉強しょうとは思わない。我々は「この人生をどう価値高くして活きればいいのか」を、まず獲得したいわけです。そして、人問存在を価値高く意義ずけ、意味ずけて評価し、そのような人生を建設したいわ けです。人間に価値に 意味を与えて、勇気ずける宇宙観、生命観 、人生観が欲しいわけです。そのようなことからしても、天風先生の哲学とい うものは、現代はもとより未来にわたって人類を導びくにたる一流哲学であると、私は信じる。天風哲学はこれからの時代を、十分にリードして行くにたる哲学であると思います。結局は大宇宙の根源主体の働きは何かということです。
天風先生はこれを英語で「"Natural Active Capacity" 自然的能動物と表現しておりました。つまりは大宇宙の根源主体は、創造的活動体であり、宇宙の本質的働きは創造であります。つまるところ「大宇宙の根源主体は、巨大なる力と測り知れない叡智を法則的に使いながら、絶えざる絶妙な創造活動をし、進化と向上の方向性に向かって、一切を大調和ならしめようとしている大生命体であります」
かくして天風先生は、この宇宙観をもとに「心身統一道」を、展開して行くのであります。
(1993年年2月14日、野口書き起こす)