梅雨の合間に綺麗な夕焼けでしたので撮えました。
自宅裏の空き地なのですが、かつてはここに7軒の一戸建ての家が在りました。
私の竹馬の友や近所の子供が住んでいましたが、いつしか一つ一つが空き家になりボロ屋となっていきました。
2年半ほど前ですが、自宅を解体すると横浜に住む一番仲の良かった幼馴染が挨拶に来ました。折よく私がちょうど帰国していたので、56年ぶり懐かし再会をしました(聞くところでは1年半前頃に亡くなったとのこと、彼は小中学校時代のヒーローだったので寂し限りです)。
こうして多くの空き家が、思い出だけを残して取り壊されて更地になって行きます。
2024年6月アーカイブ
6月3日の東大寺大仏殿に戻ります。
東大寺南大門から大仏殿までの参道の敷石ですが、4種類の石を使用して心にくい演出がなされていました。
仏教がインドから、中国、韓国、日本へと伝道した順に敷かれていまして、中央にインド産の黒御影石、次に中国産の薄黄色の石、次に韓国産の白御影石、最後に日本産の白御影石の順に敷かれています。
最近ではインドやタイ、ベトナム等、東南アジアからの観光客や仏教徒も増えて来まして、彼らこの参道を踏みしめて大仏の前で、自分らの大仏として合掌する姿を多く見かけました。
「変わらない為に、変わり続ける」、嬉しいことです。
昨日のブログに続き高野山奥之院です。
一橋から中の橋を経て弘法大師の御廟までの約2キロの参道沿いに、20万基の宗派を越えた墓碑や供養塔が並んでいました。
私は御廟の拝礼が目的で、お墓まいりに来たのわけでないので、あまりよそ見をせずに歩いていますと、参道右側の石塔に刻まれた「東日本大震災物故者慰霊碑」の供養塔を目にし、思わず立ちすくみ手を合わせてしまった。
まさかこの参道でこれほど立派な慰霊塔を参拝できるとは思いませんでした。東日本大震災はそれほど大きな被災だったのだと、あらためて再拝した次第です。 合掌
ここ10日間ほどユーチューブで真言宗のお坊さんたちの「高野山の法話」を拝聴していました。
弘法大師空海の1250年記念とのことで、今月6月2日に高野山の宿坊に泊まり、翌朝に住職の読経のなかお焼香の勤行し、精進料理をいただいできました。
835年前に永遠の禅定に入られた弘法大師空海の廟を祀る奥之院を参拝しながら、ひとつの事が頭を離れなかった。
空海と天風の宇宙観はよく似ているのですが、果たして天風も千年後に空海のように受け継がれていくのだろうかという事です。
「法を説くのに殿堂はいらず」とした天風は、真理を永遠とし宗教よりも上におきましたが、果たして真理だけでどうなるのだろうか。
余談ですが、私の当初の幼名は、父親が弘法大師を信仰していたことで、弘法大師に順ずるで「順弘(よしひろ)」でした。その後、漢字制限法で今の名前になりました。
早いもので今日は夏至。
しばらく本をご無沙汰しもっぱらユーチュブを楽しんでいましたが、先週から今日まで本を6冊買い漁り1日1冊のペースで乱読していました。やはり本はユーチューブにない良さがあります。
これからは本屋に立ち寄った際には、1冊買うように心がけようと思う。ただ、中国関連の書籍は飽きてしまい嗜食が進まない。
今回は曽野綾子さんのコラージュ「老いの贅沢」(5月30日刊)を買いました。表紙が薄いピンクで綺麗だったので、93歳コラージュシリーズ70万部突破とのことでしたので、ご祝儀に買いました。団塊の世代の曽野フアンが健在なのですね。
できたら曽野さんの元気な書き下ろしを期待したいです。
先日6月3日に東大寺大仏殿を拝観してきましたが、今頃になってその創建の偉大さに感心しています。
これまでに鎌倉、台湾、中国、ブータンなどで大きな仏像を見て来ましたが、いずれも「金堂」がありません。
大仏像に雷雨や雪をしのぐために「金堂」を建てたとは壮大な発願です。そして奈良時代からこれまで鎌倉期、江戸期の再建を経て現存の寺観が整えられています。
金堂は間口57メートル、奥行き50メートル、高さ49メールで(いずれも約)、世界最大級の木造建築を誇っています。
信仰の力ですが、今の日本人にこの心のスケールがあるのだろうか。心意気だけは受け継ぎたいものです。
(南大門)
5月の終わりから6月にかけ我が家の玄関にツバメが巣作りしていた。
東南アジアからの渡り鳥(台湾からと思いたい)で、はるばる我が家のお客さんとなった。
ツバメが巣を作る家は縁起がよく幸せが訪れるというが、最近は日本の家おくに巣を作りづらくなりツバメも激減しているようです。
考えてみれば私もツバメと同様、世界を飛び回ってこの家に住み着いたようなものです。
9月か10月にまた南方に飛んで帰るようですが、その頃まで若い燕でなく「おじさん燕」として我が家で同棲となります。
伊勢神宮はたくさんの若者でにぎわっていた。
パワースポット参拝の感覚で、その後はおかげ横丁を散策のようです。伊勢では「おかげ」と名のつくお店が目につきました。おかげさまはいい言葉ですね。
伊勢参拝はそんな「おかげさま」を、感じさせてくれます。
杉山彦一元四代目会長の「いのちを活きる」で、「刺身は海に泳いでいない」と言われました;
『私達は、人様のおかげで自分の生活ができているのである。
身につけている洋服も、ネクタイも、 靴も鞄も、
みな世間の人々が作ったものである。自分で作ったものは一つもない。
「この洋服は俺の物だ。十万円で買ったんだ。純毛だぞ」というけれど、
よく考えてみれば、とても十万円で洋服はできるものではない。
オーストラリアが原産地の純毛を例にとろう。
牧場を経営している人がいる。
羊を養育し、伸びた毛を刈り取った人がいる。
その毛をトラックにのせて、
草原や砂漠を越えて輸送した人がいる。
クレーンを操る人は、山のような羊毛を船に積み込む。
南太平洋の波濤を越えて、数万トンの船を名古屋港まで、
はるばる航海してきた人達がいる。
船から羊毛をおろし、トラックに積みかえ尾張まで運ぶ。
一宮市は織物の盛んな所である。
糸を作る。糸を染める。
布を織る人と、多くの人の手を経て、生地はでき上がる。
生地を積んだトラックは、深夜の東名高速を疾走し、
東京の日本橋に着く。
生地は問屋から流通機構を通じて、さばかれる。
店頭にある生地を見とめて、私は洋服を注文する。
寸法をはかり、デザインする。
やっと出来上がった洋服が、金十万円。
多くの人々の協力があってこそ、
十万円で洋服が自分のものになるのである。
私達は、世の人々のおかげで、
生活をしていることになる。』
(おかげさまに感謝です)
東大寺や法隆寺は高校生の修学旅行で、お祭りのような行列だった。
60年前には私もその中の一人として、夢殿から法隆寺の向かう歩道のおみやげ屋に立ち寄りバサラ大将を買いました。
信じられないことにそのお店がまだ在り、店主は娘か姪に代わっていましたが、60年前の記憶がそのまま甦りました。
ただ店にはバサラ面はなく、1700円の10センチほどの立像がありましたが、あまりにきゃしゃでしたので買うのを控えました。
このバサラ(伐折羅)像は、薬師十二神将立像を代表する守護神でした。
飛鳥を代表するバサラ大将、帰宅して面の裏側を見ますとそこに「伐折羅」と記してありました。
かつては高校生だった私の目利きを誉めてあげたい。
昨晩「伊勢―高野山―奈良」の参拝コースを巡って帰宅した。
伊勢では天照皇大御神を参拝し、翌日は高野山で弘法大師空海を参拝、そのまま飛鳥の法隆寺と大仏殿観光、聖徳太子を礼拝。
とにかくなんでもいいから全てに合掌してしまう多神教で寛容な優しい日本人をして来ました。
伊勢神宮では8000歩、高野山奥之院で1万歩、奈良飛鳥で1万8千歩、もう足まで合掌。
神さまや 仏さまが
本当にいらっしゃるかどうか___
でも あの合掌したときの安らぎは
どこからくるのでしょう
(高田敏子)