6月で新築での生活がちょうど1年なりました。
一つの区切りとして「伊勢神宮、下宮を参拝―賢島でクルージング―高野山奥之院散策―奈良―京都」に参拝巡りをしてきます。
6月3日に戻りますと2年目の生活に入ります。よろしく。
2024年5月アーカイブ
6月1日から2泊3日で、「伊勢志摩―賢島―高野山―奈良―京都」を巡ってくる。奈良の法隆寺と東大寺は、高校の修学旅行以来なのでかれこれ60年ぶりになる。
夢殿から法隆寺の向かう歩道の左側に屋台のおみやげ屋が並んでいて、一軒の店の奥に掛けてあったバサラ大将像の面に目がとまり、なんと怖い面相なのだとその場に立ち尽くしてしまった。
そのまま店に入り主人に値段を聞いてみたが、高校生の冷やかしと思われ適当にあしらわれてしまった。それでも主人にだずねると、私が買えるであろう値段で折り合いがついた。主人は新聞紙に丁寧に包んで渡してくれた。
なんで衝動買いでバサラ像を、たぶんその時は、この面相の激しさに惹かれるものがあったのだと思う。
この時、初めてちょっと変わっている自分を自覚しました。そして、この変わっている自分を大切にしようと思った。その原点として、今でも床の間に飾ってあります。
25日、新宿の中華店で母校のバスケット部OB会に参加してきました。
20人ほどの集まりでしたが、まず幹事よる2人の先輩の哀悼から始まり、次に少子化のため栄光ある母校バスケット部の廃部の知らせでした。したがいOB会もじき解散となるようです。ついに少子化が我が足元まで押し寄せてきました。
帰国して1年15ヶ月近くになるが、いまだに日本の気候に肌が合わない感じていましたが、これは天気の変化からでなく、高齢による暑さに対する感覚機能と体の調節機能の低下にあると、ふいをつかれ衝撃を受けました。これって高齢化よるものなのかよ、これから気をつけねばならない。
かくして下からの少子化、上から高齢化の板挟みの1日になってしまった。
まだ眠気が残るが、90パーセント復調。もう尻に火がついたように体が動き出し、明日から東京に向かい行動開始。
前回の天風誦句の続篇;
「我は宇宙霊と一体となって甦り
新しい元気をもって 積極一貫
喜びと 感謝と 笑いに
満たされて 進み行かん」
今日「頼清徳」(世界の命運を握る台湾新総統)の日本版著書が、サイン入りで送られてきた。さっそく拝読。
台湾で中文版がベストセーラーとだというが、新総統と副総統を理解する上で貴重な著書となっています。 中共にも必読書だが、習近平のメンタルはいまだ19世紀なので無理だろう。
医者のすすめで5日間の自宅での自粛になった。
思うにコロナ風邪と日射病を、同時併発したかと思う。いまだに日本の気候変動に対応できずにいる。
幸いの事にこの5日間、コアラの如く4度寝から5度寝の爆睡でした。横になるとすぐ熟睡、ほんとによく寝たものです。
ただ、元気の「気」が抜けてしまい「養気」するのに一苦労でした。やはり「気」は動くことで換気されるものですね。景気づけに天風誦句を記しておきたい。
「活力吸収法の誦句」
神韻縹渺たるこの大宇宙の中には、
吾等人間の生命エネルギーを力づける
宇宙霊が、くまなく遍満存在している。
今私は、プラナヤマ法と称する特殊の
密法を行い、この活力を、五臓六腑は
勿論四肢の末端に至るまで、深甚なる
感謝もつて思う存分吸収しよう。
5月20日、中華民国台湾で頼清徳総統、蕭美琴副総統の就任式がありました。
蔡英文元総統は8年の任期を全うし、いまだに人気を保持したまま見事な引き継ぎをしました。台湾の現状から見て頼清徳総統、蕭美琴副総統コンビはベストな選択でした。
「卑屈でもなく、傲慢でもなく現状維持」を政治課題にし、はっきりと「国際社会に尊敬される大国にする」と言い切りました。私の主張した積極的現状維持そのものでした。
台湾の民主がまた新しい扉を開きました。台湾の未来永劫の繁栄を祈ります。
台北101
台灣観光旅行から帰えるともう中旬になっていた。
純粋に観光旅行だったからか、帰宅してあまりに疲れがひどく体がだるいので、医者に診てもらったら、今ごろになり人並みにコロナウイルスに感染していました。
コロナウイルスも弱体化して5類から2類に移行し完全に風邪扱いでした。それでも5日間は外出を控えるようにと言われました。
私は外出しても構わないのですが、人様に迷惑をかけてもいけませんので自粛しています。まぁ、家にこもってゆっくりしています。
次回に飛ぶ時は翼を休ませる時間も旅行予定に入れることにします。
予定していた「国父孫文記念館」は改装中で閉館していました。
4日に神戸舞子の孫文記念館に行って来ました。
孫文は1904年から07年に3年間日本に住んでいたこと。台湾に1913年、16年、18年と3回立ち寄ったことがわかりました。
1913年、8月9日に中村天風は第二辛亥革命に敗れた孫文を、護衛しながら日本に帰国し、舞子の移情閣(八角堂)に身を寄せました。
その後、8月19日に孫文は夜陰の中を横浜に向いアメリカに亡命した後も、天風は中国人「孫逸郎」と偽名を使い密航罪の期限が切れるまでここに留まりました。
その為か、日本人、華人の中に、中村天風(孫逸郎)の記載名簿や写真はまったくありませんでした。たくさんの記念写真の中に1枚だけ若き天風らしき人がいましたが、期待をもって調べましたら別人でした。
このことは前から想像した通りでしたが、やはり残念なことでした。
なんの証拠がなくも天風は確かに6か月間ここに居ました。
私の天風追っかけの終点でしたが、なんの証拠がなかったが、それだけでいい。
今では明石海峡の全長3911メートル世界最長の吊り橋の下になっています。当時、天風は八角堂の2階の窓辺から明石海峡を眺めたことでしょう。
皐月を始めました。5月はなぜか紫の花が目立つ。
連休の前半は高崎から辻堂に行き恩師の神前に合掌。
後半は神戸の舞子にある孫文記念館(移情閣)に行って歴史資料を調べてきます。
ここ移情閣は辛亥革命に敗れた孫文が、日本に亡命して身を寄せたところであり、同時に天風が孫文を護衛しながら、3年間の欧米、インドの修行を終えて帰国した場所でした。
歴史資料の少ない場所で、天風に関する記載や写真は全くないのですが、前から行きたく思っていましたので、今回行くことにしました。最近は思い立ったら即行動を旨としています。
また5月8日からの台湾観光の折に「国父孫文記念館」を参観をしてきます。
そして、これが私の「天風師を追っかけ40周年」の最終地点になります。