今日は雨のち快晴で気温が23度まで上がり、すっかり春!
3月は隙風邪が3週間余もグズつき、台湾から持ち帰えった桜前線が、奄美大島に留まってしまい、例年より10日遅れで上野恩賜公園の桜が開花します。お待たせしました。
私は明日から赤城山麓で「一泊行修会」があるので、3月のブログは今日が締めとなります。
赤城南面千本桜の開花予想が、4月2日なので私の桜前線の配達が間に合いました。
もう春ですね〜
2024年3月アーカイブ
時代の寵児と言われる大谷翔平選手と藤井聡太八冠の脳内を見たくて数冊の書籍を取り寄せてみた。
我々は彼らを「天才」という安易な言葉でレッテルを貼り、我々とは違うと簡単に済ませています。本によると藤井棋士は400年に1人の天才と言われています。
これで思い出したのは、産経の台湾特派員の矢板明夫氏に会った時、台湾でAIの天才と言われるオードリータンに会った印象をたずねますと、「オードリーは26世紀の人で、何を話しているのかわからない」と言っていました。つまり天才の脳内は、我々が理解できない飛んでいる人のようです。
大谷選手の動体脳は比較的に理解しやすいですが、私の知りたかった藤井棋士の脳構造のことがわからない。本に書いてなくどんな脳内なのか興味が尽きない。IQがどれほどなのか知りたいものです。
今日は春分の日の出とともに起き日拝。
天気予報では曇りのち11時まで雨でしたが、幸運にも6時から7時頃まで太陽が出ました。
写真に撮った朝日の昇る位置が、線路の先端になり予想通りでした。この事が、私にこの家へ帰る決断をした大きな理由でした。
これから太陽は北へ旅をし、またこの位置に戻ってくると秋分となります。
真東と我が家と真西の彼岸が一直線に並びます。いいものですね。
11時からお墓まえりをすませ「おはぎ」を買って仏壇に備えました。
上の写真は妙義山麓の早咲き「河津桜」。
昨日は朝6時に起きて高崎に向かい8時25分開演の「ゴジラー1.0」を鑑賞。
アカデミー受賞で再上映となり、2人の昭和オタクおじさん、4回目と2回目のご祝儀鑑賞に出掛けて来ました。まったく呆れたもんです。
私は2回目でしてゴジラより脚本と登場人物の巧みな演技により注意が行きました。敗戦後ー1.0の戦中世代への鎮魂物語でして、もうこれだけで十分にストリーになっていました。バージョンー1.0のタイトルもうまいですね。
これを日本の若者やアメリカの「Z世代」の心情に、どれだけ訴えることができるのかわかりませんが、単なるゴジラで終わらせたくないものです。
私は脚の痺れも知らず映画に夢中になってしまい、開演後に歩けなくなってしまい階段に座り込んでしまい、ゴジラに踏みつけられてしまった。
今週はほぼ1日中、在日外国人のYouTuberにのめり込んでいました。
中でも在日ロシア人、Alicia Ford を主軸としたロシア人のサイトでいい勉強をさせてもらいました。
プーチン独裁政治がなぜ誕生したか、国民感情はどうして彼の独裁を許したのかがよくわかりました。ロシア人のことはロシア人に聞けでして、メンタル的に我々の理解を超えています。
同時にプーチンの独裁恐怖政治のやり方を、そのまま習近平が追従していることもよく理解できました。まさに一卵性双生児です。
今日の大統領選挙でプーチ独裁が継続するが、やはり独裁政治は終わらせねばならない。
東北大震災311の4日前の旅でしたので、白川越えあたりから盛岡まで新幹線の中で時おり黙祷しながら通過しました。
しかし、あれほどの衝撃だった大震災でも、13年が過ぎると追憶として冷静な黙祷になってしまう。
今回さらにひどかったのは、57年前に青函連絡船に乗り函館から江差、そして小舟に乗って奥尻島へ、僻地教育とボランティアに行ったのだが、道中のことはまったく忘れていました。さらにひどいことには、帰りに札幌に寄ったことや盛岡駅に一人で降立つたことなど完璧に忘れていました。
帰宅して古いア〜ルバムめくり〜、やっとそれらを追憶することができました。追憶できるのですからまだマシと思うのですが、脳は古く不必要になった記憶は忘れて行くものなのですね。私の脳も古くなり不必要になれば忘却されて行くのだろう。
付記:
上の写真は奥尻島で養殖したウニの身を取っているところです。
奥尻島は平成5年7月に発生した震度6の烈震で、津波や火災で死者202人、行方不明者28人という壊滅的な被害に遭いました。 合掌
7日、新青森駅から雪で埋もれた三内丸山遺跡にタクシーで直行。
丸山遺跡はやはり6本の掘立柱が象徴していますね。竪穴住居だけですといまいちインパクトがない。
遠くの岩木山(津軽富士)をバックに、紀元前3500年頃から約1500年にわたって縄文人が定住生活していたという。
しかし、4200年前に突然寒冷化したため、この地を放棄してどこかに散逸したらしい。+―4度差は自然界に大きな影響を与えるものなのでしょう。
我々も寒いので青森駅近くの郷土料理店「津軽じょっはり魚屋酒場」へ散逸。
観光化されていますが、お店の雰囲気と味はなかなかのものでした。
さて、翌日は青森でなく津軽として、昭和42年(57年前)に乗った青函連絡船を懐かしみながら、晴天の津軽海峡〜冬景色〜を眺め、その後ねぶたの家「ワ(和)・ラッセ」を見学。
年一度でいい津軽にねぶた祭りがあるかぎり「街・人・こころ」をつないでいくことだろう。
おもしろい旅でした。
どうやら風邪の主因は胃腸の冷えから始まったようだ。冷たい硬水を不用意にたくさん飲んでしまい、体調を崩すサインはあったのにそれを無視してしまった。これから油断せずすき間風邪に気をつけよう。
明日から1泊で青森の三内丸山遺跡を参観し縄文人に慕ってくる。
平成10年に恩師との共著で「超古代巨石文明と太陽信仰」を出版しました。その序章を「三内丸山遺跡とその時世界は」で書き出しました。もう26年にもなるのですね。
それ以来、1度は行って見たく思っていました。私のイメージとして日本海側に在るとばかりに思い込んでしましたが、青森駅から車でわずか20分ほどということを知り参観を即断しました。
約5500年前に建設された、縄文時代中期に35ヘクタールに及ぶ広大な都市(ポリス)集団の遺跡です。そこに縄文人が約1500年も定住生活を維持していたのですから、すごいことです。
まず明日、世界産業遺産の町から世界縄文文化遺産の町へ出かけて来ます。
これまで風邪などひいたことがないのに、3月は風邪の症状で開けました。
ここ2日間は体全体がおかしく薬を飲んで1日中寝ていました。馬鹿は風邪をひかないというので、これで少しは利口になったようだ。でも馬鹿のままがいい。
疲れもありましたが、旅の道中でレインコートと帽子をなくしたしたこともあり、3日間に南投27度ー>台北17度ー>日本7度という温度差に適応できなかった。以前ですとこれくらいはなんなく超えてきたのに、やはり歳もあるのかな。
今回、桜の山荘が山道のため、転がらないように「慢慢来」=マンマンライ(ゆっくり気を付けて)が、我々同士の口癖のようなスローガンでしたが、奇しくもこれが今後のライフスタイルになってしまった。てなことですが、今日は元気に出かけました。
(写真は山荘に置いてきたお雛様)