昭和の日もGWのはじめの日くらいで過ぎてしまった。「昭和も遠くなりにけり」で、かって我々団塊の世代は、明治が遠い感覚でしたが、それが昭和になってしまった。さらには小子高齢社会化が現実の課題になっていました。
帰国して今日で2ヶ月10日となり、卯月から皐月に入ります。
4月に新築完成予定が、5月下旬にずれ込みましたが、完成を待たずに予定通り活動を開始します。
11月出版を目処に台湾関連本の出筆をはじめます。また、江ノ島に3泊、東京を4往復、高崎に2回となっています。動かぬことには体が鈍ってしまう。
それに、ここ数ヶ月のブログは、個人的な記載が多かったですが、5月からは台湾関連と天風哲理を主軸に公的な内容に戻りたく思っています。
さて、
2023年4月アーカイブ
帰国して今日でまる2ヶ月となりました。
そんなことで習いたてのアシスト自転車に乗りハナミズキの並木を通り亡き妻の墓まいりをし、墓石に水をかけてきました。
途中に気温が26度ほど上がった暑さと湿度の中を、往復40分サイクリングしたら夕刻になって目が回り始め熱中症の洗礼を受けてしまった。
アメリカで熱中症など考えてもみなかったので油断でした。いとも簡単に熱中症になるとはいい経験になりました。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」(天風)
17日、曇り空の京都駅から「のぞみ」に乗り東京へ向かった。
名古屋駅を通過すると雲間から青空が広がり、もしかすると富士が見えるかも知れないと思い始め、掛川駅を通過する「のぞみ」の中でもう胸がワクワクしてきました。
かくして富士見駅を通過すると文字通り富士が現れました。遠慮深い富士でして、3月と4月にここを往復して初めて顔を出したので、私も帰国の挨拶ができました。富士はいい!
私の恩師はいつも朝明けの赤富士から霊感(インスピレーション)を受けたと言ってましたが、今回、私も富士を眺めた瞬時に著書の構想に閃くものがありました。
さて、11月の出版として陽の目を見るか、それとも曇りかは富士に聞きいてください。
京都駅に着くと外国人観光客が列をなしていました。やはり京都は観光都市として別格ですね。日本の文化力です。やはり訪日客回復181万人とのことです。
私は観光でなく夫婦ともに89歳になる旧友を訪ねての京都でした。その友人の招待で京都の春の風物詩、令和五年第百十九回「都をどり」の柿落とし公演を鑑賞しました。会場は満員でした。
私は漢字にこだわる習性があるのですが、無教養にも「柿落とし」(こけらおとし)」が、読めませんでした。なんでカキが落ちると「柿落とし」になるのかと踊りを見ながら考えてしまいました。
家に帰り調べましたら無教養パソコンの字体では「柿」と「柿」は同じだが、実際は字体が少し違っていました。それにひらがなも「おどり」でなく「をどり」とこだわっていました。
高価な一等観覧券で、先ずは舞妓はんのたてたお茶をいただき、2部として舞妓はんの艶やかな舞踊の鑑賞でした。公演は素晴らしいものでした。
夜は琵琶湖に移動し湖畔の温泉宿に宿泊でした。
「生き活きと 琵琶湖に泳ぐ 鯉のぼり」(三休)
山重水複疑無路 柳暗花明又一村
(山が幾重にもかさなり、川もうねうねと曲がりくねって、この先は行き止まりかと思いきや、仄暗くおいしげった柳の向こうに色鮮やかな桃の花に囲まれた村があった)。
台北に着くとホテルの裏手にある「又一村」水餃子店に先ずたちよります。私にとり「又一つの村」に来た感覚なのです。
入り口のウインドウから胡瓜の酢漬けと細切り豆腐の小菜を注文しテーブルに座り、酸辣湯と水餃子を運んでもらいます。もうこれだけで幸せを感じてしまう。
9日に台北から東京に帰ってきたが、機内は台湾の人でほぼ満員。羽田空港もホテルも台湾の人で賑わっていました。台湾は日本の人口の5分の1なのにパスポート所持者は日本人と同数のようです。まさに海洋民族です。
私は明日から京都と琵琶湖に3泊で出かけてきますが、たぶんここでも台湾の人で賑わっているかと思う。面白いことに彼らは中国人観光客と見られることを嫌い、若者はバックパックに「我是台湾人」と札をつけたり、台湾と一目でわかる印をつけて差別化しています。
私も間違えられぬよう「我是日本人」と札を付けて行こうかと、、、
「京にても 京なつかしや ほととぎす」(芭蕉)
高雄から車で3時間かけ「日月潭」に入る。
以前にもこの風景を見たのだが記憶に残っていない。湖畔を半周してから、ホテルのテラスから眺める風景はやはり台湾の名勝地でした。
翌日7日は、更に山中を1時間かけて標高1600mまで上がり友人の山荘に1泊。
驚いたことにこの地域の山中に民宿が建ち並び、ちょっとしたリゾート地になっていました。
更に驚いたことは、台湾は九州ほどの島国なのに3000m 以上の山が268あり、富士山より高い山が10あるとのことでした。宿泊したのはその山中でした。
こんな山奥まで人々で賑わうとは台湾も変わったものと思いましたら、ついに今年の台湾の1人当たりのGDPは日本を抜いていまして、いつまでも昔の台湾でありません。
私の台湾知識があまりに政治、経済に偏り過ぎ自然、文化の知識がかくも薄っぺらだったことに衝撃を受けました。一から勉強のやり直しが必要となりました。
8日は折よく台湾永遠的朋友「安倍晋三紀念撮像展」に立ち寄りましたら、ここでもたくさんの参観者でした。
安倍氏直筆の色紙「台湾加油」を抱えた立像が展示されていて、その前で、参観者が色紙を抱えて紀念写真を撮れるようになっていました。でも、私にはこれが「日本加油(がんばれ)」に読めてしかたなかった。
4月3日いろいろな思い出がある港街「基隆」に行ってきました。
今日その思い出を持って台南に行き「清明節(お盆)」霊拝してきました。台湾は基本的には仏教国(道教)なので、たくさんの人が墓参りとなります。
多くの人がエレベーターの前で長い列となるため、八階に安置されている遺牌まで一気に駆け上っての霊拝でした。
これで今回の旅の主目的が終わり、明日から日月潭の観光となります。
今日は本屋に立ち寄り、いま台湾でニュース解説者として超有名人、産経新聞特派員の矢板明夫氏の新刊「台湾+日本÷2説不定更好」(中文版)を、著者サイン入りを購入した。
表紙に「台湾人に更に日本を理解してもらい、日本人に更に台湾を理解してもらうことが、私が台湾に来てからの天命!」としています。
彼は15歳の時に中国孤児として日本帰国。慶應大学を卒業し松下政経塾を経て産経新聞入社。その後は外信部として中国特派員、2020年から産経台北支局長になっています。
当然の事で中国語がネイティブかつ反中共のスタンスです。このキャリアを台湾のマスコミが放って置くはずかなく、彼自身も水を得た魚の如く大活躍をしています。
台湾も彼も時を得ました。私も彼と近くお会いすることになる。
私の台湾旅行中に3月28日から蔡英文現総統がアメリカ、中南米を訪問中にロスアンジェルスでマッカーシー下院議長との会談が予定されている。中共はこれを「赴美売台」アメリカに赴いて台湾を売ると批判しています。
一方、前台湾総統の馬英九が反対世論63%を押し切って3月27日から4月7まで訪中し、ありもしない中華民族を吹聴し「赴中売台」しています。
そんな中、週末に中山路、南京、林森路、西門町、龍山寺界隈を計35000散歩しましたが、西門町の一角に「台湾独立」旗を見ただけで、全く政治的な様子はありませんでした。もっとも「現状維持派」が多数を占めている現状では、あまり政治外交的な騒ぎをしたくないのが実情なのでしょう。
来年1月の総統選挙まで民間の真意が見えません。台湾の人はしたたかです。
台北に来ています。お気に入りの常駐ホテルに入るとホットします。
視下に林森公園の緑地があり、今は移転しましたが、かつては第三代台湾総督である乃木希典の母親がここに葬られたことで日本人専用墓地になり、台湾に偉大な功績を成し遂げた第七代総監ある明石二郎も埋葬されていました。明石の遺言で台湾に埋葬された只一の総督となっている。
ホテルのロビーで久しぶりに「な〜るほどザ台湾」の小雑誌を目にした。前言に「ようやく『台湾アゲイン』どれだけ待ったことでしょう、、、涙」しています。ここでも明石総督が特集になっていました。
台湾も3月からマスク解禁になりましたが、松山飛行場で「マスクをしてください」とマスクを渡されました。私はマスクせずに不良旅人としてそのまま街中を15000歩散策しましたが、依然マスク人が多くまるで東京を歩いているかの様でした。これって理解に苦しむ。
もう一つ気がついたことですが、若者の華語(彼らは中国語と言わない)が、非常に聞きずらくなってきている。これはちょうどスイスジャーマンのように台湾華語(Taiwan Chinese)と方言化してきているのではないかと思う。考えれば自然な成り行きで、まぁいいことです。