12月は私にとり慌ただしい長い1ヶ月でした。
日本→アメリカ→スイス→ドイツ→スイス→アメリカと飛び回り、やっと自宅に落ち着きました。
昨日はロックヘラーセンターを観光し、ニューヨークの年越しの気分を味わってきました。
まだ今年の総括ができていませんが、2022年の元気ブログはこれで最後にします。
有り難うございました。
2022年12月アーカイブ
スイス旅を終え、明朝7時30分にチューリヒ飛行場に向かう。
旅先で読もうと塩野七生著「誰が国家を殺すのか」を、持って出たが、先ほどちょうど読み終えた。月刊「文藝春秋」を購読しなくなってから、久しく塩野女史を無沙汰していましたら、もう85歳になられていた。あの気丈な人でも歳を取るのですね。
終章に「ローマでの大患」で、今年8月24日に自宅の室内で転がって脊髄系統を骨折して、手術と長いリハベリの入院生活をなさったとのことでした。「入院中の夢は、自宅に戻ることだった。退院後の夢は、日本に帰ることである。ただそれがいつ実現するかまでわからない。リハベリはいつか終るが、コロナ騒ぎがいつ落ち着くのか」と書いている。これにはホロリとさせられた。
また「五十年昔の三十代が考えていたこと」で、「漱石、鴎外、荷風この三者とも、海外体験があることで共通している。海外体験者の日本回帰に、興味をそそられた」、「国際政治学者の高坂正堯の作品も読んでいる。文人と学者の違いがあっても、海外を体験した人の日本回帰、というならば同じなのだ」、彼らは文明の波と言ってよい歴史まで視野をひろげることは、現代の世界を捉える試みになり得る」、海外経験が文明的視野を鍛えるとしている。
蛇足ですが、30年代の高坂正堯が安全保障研究グループで日米沖縄返還交渉で活躍した頃、私はまだ20代の学生としてこのグループのお手伝いをさせてもらいました。
さて、私の日本回帰は。 (雲海)
ヨーロッパでクリスマスイブを過ごすのは初体験になります。
家族がクリスマスツリーを囲んで過ごすのですが、チューリッヒ郊外のウズナックでは実際にローソクを飾り、それに火をつけて定番の讃美歌を2曲合唱します。
それからツリーの下にあるプレゼントを、各自が一箱一箱ずつ開けて行き、家族団欒の平安な一時を過ごします。
豪華なシャンペンで乾杯し、クリスマスの食事に入り9時頃に終えてから、深夜に教会のミサに出かけてゆきますが、私は遠慮しまして翌日のクリスマスに行くことにしました。
クリスマスシーズンになるとチューリッヒのメインストリートであるバーンホフ通りに、恒例の「歌うクリスマスツリー」が飾られ、それを見ることが今回の旅行目的のひとつでした。
今日がイベントの最終日で小雨のなかで観光でした。夜店屋台でカップにホットワインとシナモンを混ぜたものを飲みながらライブでクリスマスソングを楽しむわけですが、これからもこの冬の風物詩がくせになりそうです。
前回も「三つ子の魂百まで」とやらで思ったことなのですが、私はプロテスタント系の幼稚園生の時に習ったクリスマスソングをほぼ覚えていて、彼らと一緒に(日本語ですが)唱和できるのですから、おかしなものです。どのクリスマスソングも夢があっていいですね。
明日はスイスの郷土料理「チーズフォンデュ」を食べながら、家族みんなでクリスマスイブを過ごすことになっています。
チューリッヒから長距離列車で3時間半かけてミュンヘン中央駅に入る。どこで国境を越えたのかわかりませんが、公共交通機関でのマスク着用のアナウンスが流れた。着用者は半分ほどでした。
長距離列車の終点となる中央駅に到着すると、正面にウクライナ人救援の施設が目に付いた。中に入るとたまらない異臭が漂い、簡易ベッドの上で数人がモーフを頭まで掛けて寝ていた。中央駅地下の防護を兼ねた地下鉄網はさすがドイツだと感じさせられた。
旧市街地に在る高さ85メートルの市庁舎にも、長いウクライナの国旗が掲げられていた。ドイツ人にとっては陸続きの身近な現実なことが見て取れる。
市庁前のマリエン広場を中心にしてミュンヘン市街を散策したが、相変わらず男女ともに喫煙者が多く、久しぶりに煙の匂いと路地端にポイ捨てタバコの散乱に閉口してしまった。
自己中のドイツ人には無理な要求なのかもしれないが、観光都市を自認するのであれば改善すべきモラルと思うのだが、少なくても歩きタバコは禁止すべきです。
ミュンヘン市街散策は1日目に1万歩、2日目が1万7千歩で、2泊3日の程よい旅でした。
明日は長距離高速バスに4時間乗ってチューリッヒに戻る。
55個のトンネルと世界遺産の橋を渡り、標高1800mのサンモリッツ(St.Moritz)に行って来ました。
スイスはトンネルと山々が観光なのだが、ここは超高級リゾート地でもあり、世の富豪が余暇を過ごすことで、街には超高級ホテルや超高級ブランド店が立ち並ぶ別世界が在る。
この日は零下5度の寒さでしたが、年間平均320日程が晴天に恵まれるので、澄んだ空気と気候から「シャンパン気候」とも呼ばれている。
また、1928年と1948年の冬季オリンピックの開催地となりウィンタースポーツの聖地として有名になっています。この日も折よくスキーのワールドカップが行われていました。
でもね、こんな山奥に高級リーゾートなど不自然でどうも落ち着かず馴染めない。山々があればそれでいい。
田坂広志著「死は存在しない」―最先端量子科学が示す新たな仮説―、実に面白い本でした。できたら皆さんにお薦めです。
東京の本屋にたくさん並んだ書籍のうち、スイス旅行の途上で読もうと思い3冊の本を購入したなかの1冊でしたが、出発前に一気読みしてしまった。
購入後に群馬に帰省しますと、友人が用意してくれていた本がなんとこの本でした。世に言うシンクロ、以心伝心でしたが、実はこの本はその偶然が導入テーマになっていました。
内容に入りますと、量子科学でいう「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」(量子真空)で、全てを論説していました。ただ仮説ですから前提が崩れれば全てが揺らいでしまいます。
天風師は「やがて21世紀が来たら、思想的にも、アイデアの方面にも、必ずや世界をリードするだけの権威ができると、私は確信している」、「私が三寸息絶えて、何百年の後に、世界中がみな宇宙霊との一体の実行者に、必ずなると確信を持っている」と、遺言を残していますが、量子科学の「ゼロ・ポイント・フィールド」は、それを裏付けています。
「ゼロ・ポイント・フィールド」を「宇宙霊」に置き換え、「波動」を「気体」にすれば、そのまんま天風哲理になります。ただ、天風哲理は死後の霊魂は宇宙に還元し不滅としていますが、本著書は死後まで言及していまして、宗教哲学に接近し量子論からの逸脱が伺えます。
筆者は「終話」として、21世紀は科学と宗教は一つになり、科学的知性と宗教的叡智が融合した新たな文明を提起しています。これはすでに天風哲学が100年前から実践してきたことではありますが、傾聴に値します。
やはりスイスの旅に携帯して再読と考えています。
今年はボージョレ・ヌーボー解禁日は、旅に出ていて購入できず今日になってしまった。
例年ですと2ダース購入して会社の同僚やお世話になった人に感謝祭用に配ったのだ、今年は2本だけになってしまった。
それでも11月19日に成田空港のJALラウンジで味見ができたのは幸いでした。今年のアメリカのボトルのデザインは、黒トーンで華やかさがなくなんとなく地味なものでした。これってウクライナ戦争など世相を反映したものなのかな。日本も今年の漢字は「戦」でした。
ともあれ2022年を感謝し、ウクライナの早期平安を祈り乾杯できました。
帰りの機内は横になって6時間ほど熟睡、2時間ほど宇野千代さんの本を流し読み。
宇野さんは天風師の指導を受けたこともあり、著書「天風先生座談」を遺しています。この著書の内容も同じトーンでした。これを幻冬舎の城見徹氏が「ボジティブ思考の元祖!」として発行人となっています。両者とも憎めんお方です。本屋で立ち読みのお薦め。
以下は東京散見、「動物の遺棄、虐待は犯罪です」の立て札の奥に2匹の野良猫。
小雨の濃霧に浮かぶ「天空の城」。
自宅を取り壊す際に運び出した箱の中にたくさんの手紙がありました。その内の一箱だけ整理してきました。
大半が18歳頃から20数年間ほど母親に宛てた手紙で、累計すると1000通近くなっていた。母もよく保管しておいたものです。
あの頃の連絡の手段は、今と違いワープロも無く手書きの手紙でしたが、母に1週間に1通書くように心がけていました。マザコンと言われようと、私に我儘させてくれた母へのせめてもの責務と考えてしました。
手紙はたわいない日常の心もようでしたが、それでも母は楽しみに読んでくれていたようで大切に保存してありました。私の友人はこのまま保存して置くことをすすめてくれましたが、やはり新たなる門出を機に整理することにしました。
今はスマホで簡単にかつ短くメールできますが、あの頃のアナログ手紙もまたいいものでした。そんなことで来年のカラオケでは「思えば遠くに来たもんだ」を、私の持ち歌に加えたく思っています。
今JALラウンジでこのブログを書いています。今回の台湾と日本の旅はこれで締めてアメリカに戻ります。そして14日からスイスとなっているので、そのまま旅モードを続けてゆきます。
次回の帰国はまだ予定が立っていませんが、その頃にはマスク王国を終わりにしておいてもらいたいものです。
娘の誕生日の日に、トラトラトラ
今日12月3日、群馬の自宅をさら地にして、新築に建代える地鎮祭でした。
1970年に日本を離れてから、台湾、アメリカと海外生活を続けてきたが、ここらが潮時と考え、来年2月頃に永住帰国を決めました。
その際にこれからの生活の軸足を、東京、台湾、群馬のどこにしようかと考えて来ましたが、結果的に群馬の故郷に決めました。
故郷の山並みと、親族、友人が、風天の私を、暖かく迎えてくれました。それに一番の要因は、日本を離れたときに「必ず日本に帰ってきます」との母との約束を、これで果たすことできました。たとえ今は亡き母でも約束は約束です。
さらに私のよき理解者だった妻が、3年前に先立つたときに、「私は義母と一緒に暮らせなかったから、これからは義母のお墓に埋めてください」との遺言に従いました。
そんなことで、母を慕い、妻を想いながらの地鎮祭になりました。
さら地に鍬を入れて、私の新たなる門出の祭りになりました。