311、あれから10年

| コメント(0) | トラックバック(0)

IMG_1545.jpeg 東日本大震災(311)から10年の歳月が流れた。
 どういう経緯か、私の手元に愛読していた読売新聞の「編集手帳」の販促用の小冊(2010年〜2018年)がある。
 2011年3月の「編集手帳」は、大震災の記事で埋め尽くされていました。私に代え10年目の追悼を込めて書き出しました。合掌;
「倒壊した家屋の下で、あるいは泥流に孤立して、寒さと、空腹に耐えているのだろう。祈ることしかできない身が、もどかしい」(12日)
「(原子力発電所現場作業員の皆さん)、あなた方の仕事に日本中が今、手を合わせて祈っているーーと」(16日)
「あの地震が起きてからというもの、涙を燃料に毎日を生きている。」(17日)
「死者の数が阪神大震災を超えたという。(死亡欄)生きてきた人生と、生きていくはずであった人生がぎっしり詰まったそのページを整理棚にしまうとき、ふと、指先がためらう」(19日)
「今年はサクラの開花が遅めというが、花に浮かれる心をたしなめて『泣いてる人』を思いやったーー多くの人が愛でるのは、花ではなく、酒でもご馳走でもなく、生きてある身のありがたさに違いない。宴の筵で、そういう供養もある」(25日)
「(震災の夜、避難所で生まれた男の子)特別となった3月が今日で終わる。名前も知らぬ君よ。たくましく、美しく、一緒に育とう」(31日)
「ひと目をはばからずに泣くことができる仮設住宅を全員に、一二にも早く、と思う。心の空洞を涙で埋めたい夜更もあるだろう」(4月8日)
「昆愛海4歳の記事は、両親と妹が津波にさらわれた。親戚の家に身を寄せた愛海ちゃんは、こたつの上にノートをひろげ、母親に手紙を始めたという。「ままへ。生きてるといいね。おげんきですか。(略)きのうも強い揺れが東日本を襲った。愛する人を奪い、奪われた人をおびやかす。いい加減に、もうよせ」(12日)
「あの日の日記には、ただ<社泊>とだけある。避難所<避泊>。仮設住宅<仮泊>。つらい二文字の1461回つづいた日記帳を思う」(2016年3月)
「テレビに映る被災地の惨状に胸を塞がれ、やり場のない怒りにならぬ、やり場のない善意に身もだえした人は多かったはずである。心ない避難者いじめのニュースが続く。6年という時間のどこかに、人は大切な忘れ物をしてこなかったか。胸に聞いてみる」(2018年3月)
 黙祷。

トラックバック(0)

トラックバックURL: https://www.tempu-online.com/mt/mt-tb.cgi/832

コメントする

月別 アーカイブ

この記事について

このページは、三休が2021年3月11日 03:07に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「量子宗教」です。

次の記事は「人生まだ70の坂」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。