充実した3月はベバリン山の夕陽とともに終えようと思う。
スイスの7割りが山地で3000から4000メートル級のマッターホルン、モンブラン、ユングフラン、アイガーなど名峰がそびえています。
そうした名峰に埋もれて地味なベバリン(Piz Beverin)2997メートルの山があります。3000メートルにわずか3メートル足らないため観光ガイドブックにも出てきません。チューリッヒから西に車で2時間ほど、アルプスの少女ハイジの里へ行く途中に「タァタァー」(Tar Tar)という小さな村があり、そこの村人に愛されている山で、中腹に夏場だけ開く小さな食堂があるだけです。3メールくらいサバを読めばいいのに、私はこの律儀な慎ましいさが気に入っています。
私はこの小村に縁があり、浮き世の北の山並みを賞美しています。そうしましたら私の誕生日のプレゼントにとベバリン山採掘のクリスタルをいただきました。私が2月に出版した著書のなかに「強い力の結晶」 "A Crystal of Strong Force" と書いたばかりでしたので、この偶然に鳥肌がたちました。
いま私の宝として自宅の食卓の上に飾っています。
2018年3月アーカイブ
(チューリッヒ・グロスミュンスター大聖堂)
一昨日、初孫の洗礼式そして今日は私の誕生日。
「中村天風一日一話」に、天からいただいた霊魂というものは、赤児も大人も変わらないと、すごいことが書いてあった。好都合なのでこれを誕生日の自分に贈る言葉としました;
「自分は変わらない
男は少年時代、娘さんたちは少女時代、そして赤ん坊時代。
その時分に、自分というものを考えた自己意識と、
今日、ただいま自分を考えている自己意識と比較して、
じいっと考えてみな。
すぐにわかることは、知識や肉体の発達が、まことに別人の
ごとくにも感じられはするけれども、
いま一歩深く突き進んで自分というものを本質的に考えると、
自分というものは、どこででも変わっていません。
変わったのは、あなた方の心や体だけじゃないか。(天風)
古希の春 孫におともし 宮まいり
これからチューリッヒに出かけてきます。今日はプライベートな話しになりますが、お付き合いのほどを。
チューリッヒでは、24日に初孫がカソリック教会でバブテスト(洗礼)を受け神の子として誕生します、日本でいうお宮まいりで氏子となります。まさか孫がキリストの子となるとは思いもよりませんでした。写真はスイスの田舎ターター町の実家の本家です。スイスのよさは小さな田舎町にあります。
翌日は私の古希のお祝いパティーとなります。本来なら日本の温泉でお祝いを予定していましたが、これもまさかでスイスで古希を迎えることになりました。この日はチューリッヒの一番高い山に行き、街を一望することを楽しみにしています。
そんなことで古希にちなんだ俳句でも思い、野暮なことに芭蕉になにか古希の名句がないものかと探しましたが、50歳で亡くなっていました。古希の名句はさすがに稀でして、しかたなく自作としました。
ひがしにし 垣根をこえて 古希の風
長谷川慶太郎著「日本の難題」--大局を読む緊急版--を読み終えた。
私は長谷川氏の30年来に渡る大フアンでして、経営の現役の頃には氏が提供する月刊CD情報を定期契約していたほどでした。氏が毎年度出版する「大局を読む」は、私の年度計画作成の大切な情報でした。
氏が一時健康を理由に月刊CDを中断した事と、私が現役を退いたこともあって長らく無沙汰して、今回ひさしぶりに拝読しました。
今年91歳になられたのに、相変わらず積極的な切れ味、爽やかな分析、いまだ「長谷川ここに在り」の健在を、嬉しく思うと同時に敬意を表したい。人生こうありたものです。
今回はめずらしく、11の日本の難題を列挙し論及していました。難題の所在は上記の表紙の写真にあるので略しますが、日本もこれから厳しい時を迎えるので、政権が安定している好機に難題に取り組めとしています。
また、トランプ政権への正当な分析、北朝鮮はすでに詰んでいて語るに足らずと切り捨てるとこころなど、長谷川節は健在でした。ますますのご健康と活躍を祈りたい。
アマゾンで3月13日に注文した著書が、15日に届くのですから便利です。これでは通常の本屋さんはやって行けない。
長谷川慶太郎著「日本の難題」--大局を読む緊急版--と、西部邁述書「保守の遺言」-衰退の情況--が届いた。
今回の注文は当たりでした。「保守の遺言」の出版日が1月15日ですからまさに遺書でして、検証のため読むことにしました。各章のタイトルがいい、第三章の「社会を衰滅に向かわせるマスの盲動」、「踏んづけてくれ、だが命だけは助けてくれーそれが戦後日本の思想的極意」とは、今の世相を言い得て妙だ。
スノビッシュな西部邁が結びに「あとがきの場を借りてグッドバイそしてグットラックといわせていただきたい」と、最後の最後までキザなところが気に入りました(今日のニュースでは第三者の自殺幇助がとりざたされて味噌つけましたが)。
まずは「日本の難題」から入り、今週末に「保守の遺言」に入ることにします。
自裁死した西部邁氏の四十五日も過ぎ、思想的な騒ぎは静まったので述書「保守の真髄」を読んでみたが、専門的外来語の乱発でさっぱり頭に入ってこない。何度も中断しながらいまだに卓上に置いてある。
そういえば氏の「国民の道徳」の700ページの大作も読まずに本棚に置いたままになっています。にもかかわらず、今日また西部氏の「保守の遺言」を購入してしまった。たぶんこれも読まずに本棚になると思うが、蔵書にして置きたい著書もあるものです。
このような論調なら私は学生時代の恩師である文明史家の野島芳明氏から脳裏に叩き込まれていました。西部氏は60年安保のリーダー崩れの保守論客、野島氏は特攻予備隊崩れの保守著述家、出自の違いはあるが西洋思想の流れを基盤にした思想に類似性がみられます。ですから私は強いて西部イズムを読まなくも、野島イズムでこと足りていたのだと思う。私の不勉強と思想の狭窄性にあると思うが、本との巡り逢い、すれ違いも縁という相性なのでしょう。
仕方なく先週末はユーチューブで氏の講演を拝聴して過ごした。たしかに平成の世に反近代の保守真髄を代表とする思想家でした。氏は戦後75年、特に平成の世の日本文化の低落を糾弾し続けました。文化人として三島由紀夫氏は昭和の偽善に耐えられずに殉死し、西部邁氏は平成の欺瞞と衰退に耐えられず自裁しました。
しかし、氏が自裁した後も相も変わらず、森友問題に見られる朝日新聞を始めとしたマスメディア、野党政治家、官僚の低落はそのまま日本の衰退を加速させています。
「保守の真髄」の横帶にある氏の最後の遺言を謙虚に受け止めたい;「世界恐慌、世界戦争の危機が見込まれる現在、政治や文化に関する能力を国民が身につける必要がある。そして良き保守思想の発達した国家でなければ、良き軍隊をもつことができないのである」。
アメリカは今日から夏時間、日本との時差13時間。今年は3.11と同日でした。
夏時間と言うのに今週は火曜と土曜が雪予報です。そういえば7年前の被災地も雪がぱらつき寒い日々でした。ニューヨークの日本領事館でも支援金活動があり、私も支援に出かけました。
そうしますと、しばらくして「感謝、友、絆、Arigato from Japan」というゴムの腕輪?が送られてきました。当時はよくこの「絆」の語意が使われていましたが、まだ絆は続いているのだろうか。復興はどこまで進んだのだろうか。機会をみて鎮魂に行きたく思っています。
黙祷。東日本大震災から7年が過ぎました。
黙祷すると今もあの巨大な津波と福島原発事故の様子が鮮明に浮かんできます。長い海外生活の中で初めて日本が崩壊してしまうのではないかという緊張を経験しました。
京都三十三間堂の1001体の千手観音像の修復作業が、昨年末に約45年かけて終ったようです。私は数年前にここを参観したとき非常にはずかしい経験をしました。千手観音立像を流すように参観していましたら、後から続いてきた東南アジア系の旅行グループが、観音像に合掌しながら拝観していました。私の観光対象と彼らの信仰対象の違いで、私の心の貧困さを思い知らされました。しかも千手観音は私の守護仏なのにです。
今日はこの修復された1001体の千手観音立像と一緒になって黙祷を捧げます。 合掌
息抜きに知人からいただいた池井優著「あの頃日本人は輝いていた ー時代を変えた24人-- 」を読み終えた。
日本人に夢を与え、勇気づけたスーパースター24人を、250ページの枠で書き上げるは無理がありますが、著者の暖かい視線でコンパクトにまとめられ味わいのある本でした。
この種の本は今では Wikipediaで間に合うご時勢ですから強いて買う必要もなく、商業ベース的には絶滅危惧の出版本になると思います。著者も川柳で「絶滅危惧種 電車のなかの 読書人」と詠んでいます。
でも、著者の人柄により昨年11月に単行本となり、こうしてゆっくり読めることは、読書人にとり楽しい贅沢です。まだまだ絶滅危惧種にしたくないですね。
今朝メールを開けると私の苗字の後に「学長」が付いていた。はて、私はいつから学長になったのか、まだ目が覚めずに夢でもみているのかなと思った。
なんのことはない、私が台湾に留学した大学院からのメールで、中国語では学業の先輩を「学長」と呼ぶわけです。私はとうの昔から学長でしたーー;
メールは研究所創立50周年祝賀会が年末に開催される案内でした。私は大学長になるので、でかいツラをして参加しようと思っています。当時は山の中腹の檻に囲まれた全寮制で三食同じ釜の飯を食べた研究所だったので、同学たちの顔が一人一人懐かしく想い浮かんできました。かつて私にも学門に没頭した時があったのですが、象牙の塔に馴染めずアメリカに渡って以来、そのまま同学たちとはご無沙汰でした。年末の祝賀会で旧懐を温めてきたく思っています。
週末は芹沢光治良著「神の微笑」(新潮社1986年刊)を読んで過ごしました。
芹沢氏が晩年「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念により、90歳から書き始めた「神シリーズ」です。32年前の古い本でして強いてお薦めしませんが、神と信仰の葛藤は今になっても読書に耐える秀作でした。無神論を貫いた著者が、イエスも釈迦も大自然、宇宙から降臨したものと言っています。
実はこの「神シリーズ」は、一度も手をつけたことがないまま我が家のガラージに置いてありました。いったい誰からいただいたのか、或は知人が帰国の際に預けて行ったのか、まったく記憶にないまま20数年ガラージに眠っていました。
たぶん預かり物なので、この間に何度も本を処分しているのですが、この本はそのまま残していました。この春に処分しようと思い、心当たりの知人に尋ねたのですが、いずれも該当者がいないまま本は現存するのです。
そんなことでなんとなく「神の微笑」「大自然の夢」を読んでみましたが、いずれも一気読みになってしまいました。本との出逢いとは不思議なものです。
ここに写真を掲載して置きましたのは、ある日「それは私の大切な本だ」という方が現れることを期待して、それまで保管しておくことにしました。
春よ来い 早く来い
あるきはじめ みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
今年は初節句が二つあるからか、上野松坂屋のショーウインドーの雛人形が目にとまった。そうしたら自然に「春よ来い」の童謡が思い浮かんできた。
天から一つの小さな命をもらい、一生懸命に活きようとする赤子の「一つの生を懸命に」を教えられ、いい歳した爺がトホホの心境です。
昨日は春の嵐、ここ数日はなぜかクラシックでなくジャズを聴いています。もう春ですね〜♪