石原慎太郎著「天才」についで、ノンフィクション作家・鬼塚英昭の遺稿「田中角栄こそが対中売国者である」(2016年3月刊)を、読んでみました。著者はこれを世に出すまでは死ねないと、脱稿後に逝去しています。合掌。
著書の横帶に「清貧・反骨の中国学者・佐藤慎一郎が32年3ヶ月書き続けた <総理大臣秘密報告書> を徹底分析、角栄の中国利権の全貌が明らかに!」。
私は鬼塚氏の著書を読んだことがないのですが、この表紙に突如としてすでに忘れられていた「佐藤慎一郎」の名が出てきたからでした。鬼塚氏は病床で「人生の最後に素晴らしい男に出会えた」と話してましたが、私には人生の最初に出会った人だったからです。
私が二十歳の時にある研究所で、佐藤ゼミを数人の学生に混ざって聴講させてもらい、中国研究を始める取っ掛りになった先生でした。このゼミで「中国と中共」は分離して研究することと、「われ中国に空手で来て、空手で帰る」志を学びました。
鬼塚氏の著書にふれる前に、先ず佐藤慎一郎の肖像について簡単に紹介しておきます。佐藤慎一郎は明治38年に生まれの中国研究家で、満洲国大同学院の教授、総務庁事務官を任務していました。敗戦後は帰国の道をあえて選ばず、満州に取り残された日本人の救出に奔走し、中共に捕らえられ2回の死刑宣告を受けながらも釈放、ついで国民党に逮捕され戦犯収容所に10ヶ月収監後に釈放され、日本に引き揚げてきました。
なぜ両党から釈放されたのか、これは推測ですが、伯父の山田良政が国父・孫文の同志として中国革命に参加して外国人で最初に殉死したという功績と、叔父の山田純三郎が孫文の革命同士だったことで手をつけなかつたかと思います。それに佐藤先生が醸しだす、天然の優しい人柄、純粋素朴で、至誠そのままの真心をみると、殺さずに生かしてやろうという惻隠の情が働いたかと思います。
私は佐藤慎一郎が63歳頃に会ったのですが、東北弁なまりで訥々と話す素朴さと優しさがにじみでいました。情の人でした。世の中にこんなお人好しがいるのか、、、という第一印象でした。
戦後は中国から脱出してくる中国人の世話を続け、時には大学教授のなけなしの給料から援助していました。また32年3ヶ月毎月1回、歴代の総理大臣に秘密報告書を無償で書き続けていました。
生前1997年4月に一度だけ先生の自宅に挨拶に行きましたが、引揚者用のさびれた狭い市営住宅に老夫婦で清貧に過ごしていました。私にはとても真似のできる人生でなく、敬意と溜息を交えてその場を離れました。
1999年11月、94歳で永眠。
中国大陸に果てしない夢を追い続けた浪漫派の最後の人でした。(続)
佐藤慎一郎(1)
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