石原慎太郎戦後70年談話

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51EUgwqdXKL._SX347_BO1,204,203,200_.jpeg 帰郷のおりに友人からいただいた「歴史の十字路に立って」戦後七十年の回顧、石原慎太郎著(2015年6月刊)を、政界引退の慰労をこめて拝読しました。
 先般、安倍首相の戦後七十年談話は素晴らしい内容でした。本著書はそれに肉付けした石原戦後七十年談話、と言うより氏の政治活動を総括した遺書になる著書でした。
 書き下ろし自叙伝ですので多少の脚色を差し引いても、70年間を潰されることもなくよく突っ張り通して活きてきたものです。いったいこの硬派なバンカラ自叙伝を誰が読むのだろうか。まず女性は敬遠するであろうし、私も友人からいただかなければ読む事もなかったです。
 しかし、読み進めるうちに氏の遍歴にどんどん引き込まれてゆきました。私の人生のほんの一時期でしたが石原氏とかなり近い所にいたことを、今さらに知りました。氏が昭和43年の参議院選挙に出馬した時、飯田橋の講演会場まで駆けつけ所信表明を聞き、私の初めて選挙権を氏に投票しました。それ以来ぶれることなく支持してきました。
 当時は私が民族派の学生運動に身を置いていたこともあり、自叙伝に登場する政治家、学者、友人が、等身大ですぐそこに居ました。沖縄返還祝賀パレードの手伝いに動員され時、佐藤栄作元首相から放射されるオーラを真近で見ました。グロテスクな田中角栄氏に対する氏の嫌悪も共有してましたし、「青嵐会」の訪華歓迎会に私も列席していました。
 きわめつきは著書の佳境にあります、日本武道館での明治百年記念式典における、「テンノー、ヘイカッ、バンザアーイッ!」の章でした。石原氏は突然に起こった万歳三唱を、感慨深く「あの瞬間はただひたすら、ああ、かつて私たちはこうだった。なんだろうと、こういう連帯があったのだと、誰しもがしみじみ感じ直していたに違いない。あれはなんと言おうと、国家や民族というものの実在への、瞬間的であったが狂おしいほど激しい再確認だったと思う」と、回顧していました。
 私もこの式典の手伝いをしてまして、氏と同じ感慨を胸にしました。私は初めて昭和天皇を遠くから拝見した時に、体内からこみ上げてくる血の騒ぎと身震いはいったいなんだったのかが、氏の自叙で納得がゆきました。ナショナリズムなどという言葉を超えたところで、無条件に純に日本人の血を自覚させられました。
 石原氏はさらに続けて、「あの時二階席からかかった『天皇陛下っ』の声に、見事いうか本能的にというか、それを聞き受けて立ち止まり、すっくと立ち向かわれた昭和天皇はもはや言寿を受ける天皇個人でなしに、正しくは私たちの国柄、歴史の象徴たり得ていたと思う」、「あれはたぶん日本で最後の本物の天皇陛下万歳でした。今になればなるほどそんな気がします」と、回顧しています。
 この瞬間を、私も石原氏と同じ場所で同時に呼吸をしていたことになります。それに私の近くから万歳を発した人は、私が学生時代にお世話になっていた末次一郎先生でした。氏は末次氏の言葉を引用し「僕の第一声に陛下がぴたりと足を止め、二階のこちらに向き直ってくださった瞬間には、感動と言うより、ああこれで死んでもいいかなと思った」と記しています。ちなみに末次氏はルパング島に最後の日本軍人、小野田寛郎少尉を迎えに行った戦友でもありました。
 その後私は留学のため母国を離れ、その翌月に三島由紀夫事件がありました。この時の石原氏の三島事件の評価が、政治的で冷静すぎたのが気に入らず、そのまま無沙汰になりました。
 今こうして氏の自叙伝を拝読し、私も同じ戦後を共有してきたことに何とも言えない他生の縁を感じました。著書に登場する群像の多くはすでに身罷ってまして懐かしさこぼれる自叙伝でした。
  夏草や つわものどもが 夢のあと  (芭蕉)

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このページは、三休が2015年9月 8日 03:00に書いた記事です。

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