私がカンボジアを観光していた8月、中国の寄付で昨年建てられた陸軍病院の院長と副院長ら6人、中国人、ベトナム人3人が臓器の違法売買で逮捕されていました。中国が組織的に臓器収奪を謀ったようです。臓器は中国人の患者へ約350万円から400万円で密売され、提供したカンボジア人に約50万円が支払らわれていたとのことです。彼らにとり50万円は大金で約10年分の生活費になるわけで、これが貧困国の悲哀です。
私はアンコールワットの帰りにシェムリアップ飛行場の売店で「殺戮荒野からの生還」コン・ボーン著(海賊版20ドル)を、購入して機上で読み進めたら「一ノ瀬泰造さんとの出会い」の章がありましたので、改めて一ノ瀬泰造著「地雷を踏んだらサヨウナラ」を読んでみることにしました。すでに40年前の出来事で、何を今さらなのですが団塊世代の青春の化石としてブログに記しておくことにしました。
一ノ瀬泰造(1947年生)戦場フォトジャーナリスト。いわば賞金稼ぎの国際素浪人としてベトナム戦争、カンボジア戦線を駆けずり回り1973年11月に26歳の若さで戦死しました。戦場カメラマンの最高の栄誉であるキャパ賞を獲得し国際的フォトグラファーになる夢を追い続け、命賭けでクメール・ルージュが占拠していたアンコールワット共産解放区へ単独で潜行したまま行方不明となり処刑されました。世界的に注目されていたアンコールワットを背景にクメール・ルージュを撮るという大スクープの野望に燃え、己の命を賭けて破れ散りました。ポルポト政権クメール・ルージュの狂気性を甘く目論んだ、若さ故の無謀な大博打でした。
私が台湾に留学し山の中で共産党研究に没頭していた同時期に、彼はカンボジアとベトナムの戦場で悪戦苦闘しながら共産軍の被写体を追っていたのかと想うと不思議な感慨が胸に迫ってきます。
著書の中の彼は、当初はいい加減な浪人カメラマンでしたが、だんだんカンボジアに引き込まれ成熟して行く姿が浮かんできます。彼は日記に「平和になったらこの国に住みたい」、「カンボジアに悲劇は似合わない」、「大自然に順応する彼ら、こんな美しい夕焼けを毎日ながめられるカンボジアの人の眼は美しくなるはず」と、記するまでになりました。それに母から「泰ちゃんへ」の手紙も涙を誘います。
一ノ瀬はアンコールワットの街シェムリアップでロックルー(先生)という得難いカンボジア未来に燃える好青年に出逢っています。彼はこの街でいつも一ノ瀬の側にいた親友でした。この本に「砲声と宴」として、1973年11月8日付けロックルーの結婚式の写真が3枚掲載されています。一ノ瀬は水たまりの田んぼのなかを新郎新婦が寄り添いながら歩く睦まじい生な姿に、「田舎教師に徹するという彼は、新婦と連れ添いなから未来を語りあう」と注を記してました(上下の写真)。
一ノ瀬がアンコールワットに向かう数日前の写真です。私は彼の戦場の写真集のなかで、西洋写実絵画を彷彿させるこの写真が、最高の傑作と観ます。「カンボジアに悲劇は似合わない」とする一ノ瀬がほんらい撮りたかったであろうカンボジアの愛がここに写し出されています。彼が最期に辿り着いたカンボジアへの思いの遺作です。
ただ著書の解説にロックルーのその後の消息が全く書かれていませんでした。恐らく知識人として殺戮されただろうと推理してみても気になりだして頭から離れなくなってしまい調べてみましたら、やはり一ノ瀬を追うようにして1975年クメール・ルージュに捕まり処刑され、彼の未来も抹殺されていました。新婦は生きのびクメール語の教師をしていたとのことです。
8年後の1985年2月、両親によって一ノ瀬泰造の亡骸が確認され当地で葬儀を行い、遺骨の一部はアンコールワット境内のガジュマル樹の元に埋められました。 合掌
私はアンコールワットの帰りにシェムリアップ飛行場の売店で「殺戮荒野からの生還」コン・ボーン著(海賊版20ドル)を、購入して機上で読み進めたら「一ノ瀬泰造さんとの出会い」の章がありましたので、改めて一ノ瀬泰造著「地雷を踏んだらサヨウナラ」を読んでみることにしました。すでに40年前の出来事で、何を今さらなのですが団塊世代の青春の化石としてブログに記しておくことにしました。
一ノ瀬泰造(1947年生)戦場フォトジャーナリスト。いわば賞金稼ぎの国際素浪人としてベトナム戦争、カンボジア戦線を駆けずり回り1973年11月に26歳の若さで戦死しました。戦場カメラマンの最高の栄誉であるキャパ賞を獲得し国際的フォトグラファーになる夢を追い続け、命賭けでクメール・ルージュが占拠していたアンコールワット共産解放区へ単独で潜行したまま行方不明となり処刑されました。世界的に注目されていたアンコールワットを背景にクメール・ルージュを撮るという大スクープの野望に燃え、己の命を賭けて破れ散りました。ポルポト政権クメール・ルージュの狂気性を甘く目論んだ、若さ故の無謀な大博打でした。
私が台湾に留学し山の中で共産党研究に没頭していた同時期に、彼はカンボジアとベトナムの戦場で悪戦苦闘しながら共産軍の被写体を追っていたのかと想うと不思議な感慨が胸に迫ってきます。
著書の中の彼は、当初はいい加減な浪人カメラマンでしたが、だんだんカンボジアに引き込まれ成熟して行く姿が浮かんできます。彼は日記に「平和になったらこの国に住みたい」、「カンボジアに悲劇は似合わない」、「大自然に順応する彼ら、こんな美しい夕焼けを毎日ながめられるカンボジアの人の眼は美しくなるはず」と、記するまでになりました。それに母から「泰ちゃんへ」の手紙も涙を誘います。
一ノ瀬はアンコールワットの街シェムリアップでロックルー(先生)という得難いカンボジア未来に燃える好青年に出逢っています。彼はこの街でいつも一ノ瀬の側にいた親友でした。この本に「砲声と宴」として、1973年11月8日付けロックルーの結婚式の写真が3枚掲載されています。一ノ瀬は水たまりの田んぼのなかを新郎新婦が寄り添いながら歩く睦まじい生な姿に、「田舎教師に徹するという彼は、新婦と連れ添いなから未来を語りあう」と注を記してました(上下の写真)。
一ノ瀬がアンコールワットに向かう数日前の写真です。私は彼の戦場の写真集のなかで、西洋写実絵画を彷彿させるこの写真が、最高の傑作と観ます。「カンボジアに悲劇は似合わない」とする一ノ瀬がほんらい撮りたかったであろうカンボジアの愛がここに写し出されています。彼が最期に辿り着いたカンボジアへの思いの遺作です。
ただ著書の解説にロックルーのその後の消息が全く書かれていませんでした。恐らく知識人として殺戮されただろうと推理してみても気になりだして頭から離れなくなってしまい調べてみましたら、やはり一ノ瀬を追うようにして1975年クメール・ルージュに捕まり処刑され、彼の未来も抹殺されていました。新婦は生きのびクメール語の教師をしていたとのことです。
8年後の1985年2月、両親によって一ノ瀬泰造の亡骸が確認され当地で葬儀を行い、遺骨の一部はアンコールワット境内のガジュマル樹の元に埋められました。 合掌
コメントする