(シェムリアップの市場)
「猿を聞く人 捨子に秋の 風いかに」(芭蕉)
今回持ち帰ってきた著書の中から、先ず大連育ちの異邦人こと渡辺京二口述「無名の人生」(文藝春秋)から読みはじめました。私の愛蔵書「逝きし世の面影」(葦書房)の著者です。外国人が江戸末期から明治初期に日本にやって来て、「素朴で絵のような美しい国」、「日本人は幸せな民族だ」とつぶやいた、この暖かい眼鏡を借用してカンボジアを見て行くとまた違った世の面影が見えてきます。
経済基準のGDP、所得水準、識字率、平均寿命等、近代文明の物差しで計量すればカンボジアは最貧国になります。近代化に失敗した国、後発開発途上でこれからの国です。是非とも豊かで健康な国造りを希望したいものです。
こうした私たちの文明基準で見ますとカンボジアは浮かばれませんが、暖かい眼鏡で当地の文化社会を観て行きますと、彼らは貧しい環境のなかでも、人それぞれが置かれた場所で一生を懸命にして生きて活き抜いています。
国教である上座部仏教を信仰し、お寺で祈りを捧げ、殺生を戒め、和を大切にし、挨拶も互いの仏心に合掌しています。若者は38度の炎天下に最近流行りだしたバレーボールを楽しみ、子供たちは公園で元気に遊んでいます。自分たちの置かれたところが世界の中心であり、そこで人々と交わり、子沢山の家庭を築き、雨季があり、乾季があり、それに合わせて田畑を耕し収穫し、1日を得て1日を過ごし1年を終え、50歳半ばで輪廻転生して逝きます。何が幸福で何が不幸なのかも問うことなく、より豊かさを求めながら生きています。まさに沈黙の「無名の人生」ですが、そんなことは意識もせずに宿命のなかで生活しています。
漂泊の旅人、芭蕉は「野ざらし紀行」の富士川で、捨て子をみつけても助けることもできず、「唯これ天にして汝が性(宿命)のつたなきを泣け」と、一句と食物を与えて通り過ぎています。
ポルポトはこの性(さが)に耐えきれずに破壊へと暴走して行きました。
私には宿命に忍従する生命の実相として、良寛の「丁度よい」が耳心に響いてきました。
お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸もよろこびも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へいこうと極楽へいこうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ日月さえも丁度よい
お前にそれは丁度よい
仏様と二人連の人生
丁度よくないはずはない
丁度よいのだと聞こえた時
憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏 (藤場美津路・作)
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