敗戦国の日本を「永遠に自主防衛能力(軍隊や核)を持たせず保護国にしておく」ことがアメリカ占領軍の国策でした。日本を弱体化する方針に沿って日本国憲法が施行されてから67年たった現在まで続いています。日本は占領デモクラシーのもとで自虐史観を徹底的に叩きこまれて去勢文化を形成してゆき、戦後レジームの虚妄の揺りかごのなかで日本の指導者、保守も革新も惰眠を貪り続いてきました。
日本は敗戦国の宿命として、「耐え難きを耐え忍びがたきを忍んで」これを苦受してきました。しかし、このままでは日本は滅びてしまう、もう我慢ならぬと、1970年11月25日に三島由紀夫は文化防衛論と日本刀を掲げ、最後の武士として「憲法改正」、「自衛隊を国軍に」と叫びながら、戦後レジームの分厚い壁に立ち向かい討死にしました。「(武士)美学とはきわまるところ首一つ」(東野大八)、自衛隊の総監室で武士道の儀式とうり実に見事な切腹でした。
あの衝撃から44年の歳月が流れました。三島の遺言の通り、「このまま行ったら日本は滅びてしまう、その代りに無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない経済的大国が極東の一角に残るであろう」と予言を残しました。
三島はやはり天才でして、今の日本はその様になっています。だが、日本文化はそれほど「ひよわな花」ではなく、三島がいみじくも言った自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華を体現し、伝統文化の美的形式を体現した者の行動原理は、「後ニ続ク者在ルヲ信ズル」の思想まで高められます。その日本文化の水脈を通しながら細々とではありますが、今日までしぶとく生き残っています。民族がもつDANなのでしょう。
長い日本史のなかでたかだか戦後70年などなんのそので、ここにきてやっと戦争を知らない世代から戦後レジームを越えて行こうという気運が高まってきています。安倍政権や作家の百田尚樹らの主張する、「戦後レジームからの脱却」「憲法改正」や「集団的自衛権の容認」、「美しい国の創造」も、こうしたうねりの延長線上で捉えてゆくべきものと考えます。
本来ですと戦後レジームからの脱却は、我々団塊の世代がやるべき課題でしたが、たいへん残念なことに、気がついたら我々も自虐史観のもとで育った優等生で、戦後レジームの中にどっぷり漬かって生きていました。あの民主党のリーダーたちに見られた戦後教育の体現者そのものでした。我々も戦後レジームの中心にいて、三島の日本刀の剣先は我々にも向かっていました。しかし、己を否定して創り代えることは至難なことです。我々にできることは戦後レジームから脱却の邪魔をせず手助けし、新生日本を次の世代に委ねる事です。
今から思えば我々団塊世代は、1970年11月の三島由起夫が自決した時点ですでに終決していました。三島と殉死した森田必勝がこの世代を象徴しています。その後は「いちご白書」でして、何事も起こることなく「されど我らが日々」となりました。
「この道は 行く人なしに 秋の暮れ」(芭蕉)
日本は敗戦国の宿命として、「耐え難きを耐え忍びがたきを忍んで」これを苦受してきました。しかし、このままでは日本は滅びてしまう、もう我慢ならぬと、1970年11月25日に三島由紀夫は文化防衛論と日本刀を掲げ、最後の武士として「憲法改正」、「自衛隊を国軍に」と叫びながら、戦後レジームの分厚い壁に立ち向かい討死にしました。「(武士)美学とはきわまるところ首一つ」(東野大八)、自衛隊の総監室で武士道の儀式とうり実に見事な切腹でした。
あの衝撃から44年の歳月が流れました。三島の遺言の通り、「このまま行ったら日本は滅びてしまう、その代りに無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない経済的大国が極東の一角に残るであろう」と予言を残しました。
三島はやはり天才でして、今の日本はその様になっています。だが、日本文化はそれほど「ひよわな花」ではなく、三島がいみじくも言った自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華を体現し、伝統文化の美的形式を体現した者の行動原理は、「後ニ続ク者在ルヲ信ズル」の思想まで高められます。その日本文化の水脈を通しながら細々とではありますが、今日までしぶとく生き残っています。民族がもつDANなのでしょう。
長い日本史のなかでたかだか戦後70年などなんのそので、ここにきてやっと戦争を知らない世代から戦後レジームを越えて行こうという気運が高まってきています。安倍政権や作家の百田尚樹らの主張する、「戦後レジームからの脱却」「憲法改正」や「集団的自衛権の容認」、「美しい国の創造」も、こうしたうねりの延長線上で捉えてゆくべきものと考えます。
本来ですと戦後レジームからの脱却は、我々団塊の世代がやるべき課題でしたが、たいへん残念なことに、気がついたら我々も自虐史観のもとで育った優等生で、戦後レジームの中にどっぷり漬かって生きていました。あの民主党のリーダーたちに見られた戦後教育の体現者そのものでした。我々も戦後レジームの中心にいて、三島の日本刀の剣先は我々にも向かっていました。しかし、己を否定して創り代えることは至難なことです。我々にできることは戦後レジームから脱却の邪魔をせず手助けし、新生日本を次の世代に委ねる事です。
今から思えば我々団塊世代は、1970年11月の三島由起夫が自決した時点ですでに終決していました。三島と殉死した森田必勝がこの世代を象徴しています。その後は「いちご白書」でして、何事も起こることなく「されど我らが日々」となりました。
「この道は 行く人なしに 秋の暮れ」(芭蕉)
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