私は三島が自決する1970年の夏、池袋の西武デパートにつながる駐車場との狭い通路で、一度だけ三島由紀夫とすれ違っています。三島はスポーツジムの帰りにデパートに寄ったのか、ポロシャツ姿に右手のスポーツバックを肩にして胸を張り肩をゆすりながら歩いてきました。台湾留学をひかえていた私は、西武デパートでガードマンのアルバイトをしてまして、さえない鼠色の警備服を着ていました。三島から(盾の会のユニホームと比べセンスの無い制服だな)と一瞥されました。私もその目を受け、えらく意気がった人だなと印象を持ちました。「袖ふり合うも他生の縁」、三島を見たと言っても、ただそれだけのことです。
同年の10月25日、私は日本を離れて台湾へ向かいました。自衛隊に入隊している剣道二段の同志から餞別にと立派な木刀もらいました。私は同志の意とする事を読んで、彼に向かい「今の日本で足のある思想家は三島しかいない。これから三島の行動に注意して行こう」と言い残して海を渡りました。私はよく冗談で自分は戦後の思想難民だと言ってますが、日本に徴兵制がないので留学を徴兵と考えていました。
1ヶ月後の11月25日、研究所宿舎にいた私に、同学から三島が自衛隊本部で自決した速報を受けました。当初、俄に信じられず三島得意のパフォーマンスだろうと思いました。が、じきに事実だとわかり、「三島はやはり本気だったのか」と、電撃的な衝撃を受けました。そしてそのまま木刀を前にして自分の部屋に籠ってしまいました。もし一大事ならば木刀を持って駆けつけようと決めていました。
私が毎日宿舎でこの木刀で素振りをしていたからか、あるいはどこかのお達しか、私は要注意人物として言動を1週間ほど監視されました。私は当研究所で右翼活動家に見られていたことを初めて知りました。
事件から1年半ほどして「盾の会」の一隊員が、羽織袴姿で私の宿舎に訪ねてくれました。彼とは初対面でしたが、さすが三島が選ぶだけあり容姿端麗、背が高くガッチリとした男前でした。私は彼から当時の状況を聴いたわけですが、彼の羽織袴姿が目立っため、この時もまた宿舎で監視されることになりました。
私は彼らの志を整理して三島事件を一段落させました。そしてしばらくはおとなしく冬ごもりを決め込み、現代中国研究に専念し、3年間の研究生活に没頭しました。
「先ず祝え 梅を心に 冬ごもり」(芭蕉)
それ以来、未だに冬ごもったままになっています。今でもお国に一大事があれば一兵卒として駆けつける覚悟で海外生活を続けていますが、「思えば遠くへ来たもんだ〜♪」です。皮肉とでも言うのか、若き日に「近代の超克」を夢見て、文化的な反米だった私が、アメリカに長く住みつき、今では白髪が目立ちはじめ、盾の会の彼は食品商売で繁盛し、かつての同志は早逝し、木刀は錆びついたままになっています。
何事もなき平安を感謝して喜ぶべきなのでしょうが、「飛ばない豚はただの豚」となっています。もしかするとオリにいる「千と千尋の神隠し」されたお父さん豚かも知れません。まぁ豚でもいいか。ひさしぶりに台湾海峡の上空を飛んで来るとします。
7月までご無沙汰です。みなさんもお元気で。