スロバキア

| コメント(0)

DSCN3526.jpeg 3年前にウインに行った時、わずか60km先のスロバキアまで行かなかったことに悔いを残しました。2年前にチェコを観光した時、協議離婚の片側であるスロバキアまで足を伸ばさなかったことに、またして胸にひっかかっていました。ですから今回は出発前からブタベストから行こうと決めていました。スロバキアはついで廻りの観光で、この国だけを目的にして行く奇特な人はそういないと思う。
 ブタベスト東駅から汽車に乗って2時間半、大平原とドナウ川、アカシカの樹々に咲き乱れる白い花を見ながら、首都プラチス
ラヴァ駅(いまだ名前が憶えられない)に到着。一人旅に当地のガイドさんと日本人のガイドさん二人の美女?が駅で迎えてくれて、ランチを挟んで滞在5時間で旧市街地を両手に花の散策ツアーになりました。
 スロバキアの先住民はケルト人、1世紀頃にゲルマン人が支配し、5世紀頃からスラブ人がこの地に帝国を築き、今日までスラブ系民族の国になっている。一方のハンガリーはフン族の流れがまじゃるというマジャル人、私にはその違いがわからないが、両者はさしずめ日韓の感情関係いうから面白い。感情対立の歴史をひも解けば、10世紀にマジャル人がこの地に侵入してハンガリー王国を成立させて長期にわたり統治し、さらに、オスマントルコ帝国がハンガリーに侵入すると、ここにハンガリー王国の首都が移したことにあるらしい。日韓もそうだが隣国との民族対立は、感情対立がないとお互いが同化してしまうという、民族の危機防衛本能だと思う。
 そのハンガリー王国が君臨した
プラチスラヴァ城の高台からドナウ川を眺めると、上の写真に見られるように川上のすぐ向う岸にたくさん風力発電塔が並んでいて、そこからがオーストリア、川下のすぐ向う岸がハンガリーで、三国の国境沿いにドナウ川が流れていました。これなら強国が歩いて侵入するなど朝飯前のことです。しみじみ、海に囲まれて守られている日本は、なんと恵まれた国かと実感させられる。
 1948年から1989年のソ連共産党に統治され、多くの人が自由を求めてスロバキアからオーストリアへ脱出を試み、この中間地帯で40年間に400名余の人が銃殺されているとのことで、まさに亡命です。ベルリンの壁だけでなく、ここでも見えない壁があったことを初めて知り、その方向に向かって黙祷を捧げました。この風景を見ただけでも、この地に来てよかったと思った。
 旧市街地では別格のワインの美味しさ、高校生の卒業パレードの元気な騒がしさ、バザーと多くの大道芸人たち、それぞれが皐月の青空の下で平和を楽しんでいた。それにしてもこの大道芸人の空中浮揚のトリックは縦棒にあることはわかるが、見事なものだった。
DSCN3594.jpeg

コメントする

月別 アーカイブ

この記事について

このページは、三休が2012年5月17日 10:11に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「ドナウのバラ」です。

次の記事は「粛白「雲龍図」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。