新天津駅前の広場に、高さ40メートル、重さ170トンという「世紀時計」のモニュメントが建っている。中国最大級の「世紀時計」は、太陽と月が腕のように伸び、12星座をかたどった青銅の文字盤、中心に「天津」とその下に「2000」とあり、あたかも「21世紀は中国の世紀」と誇示するかのように時を刻んでいる。なんでも世界一を目ざすのは民族精神の活力であり、後進国家の虚勢でもあるが、なかなかよく出来た見事な時計塔である。これでもし太陽と月が地球の自転とともに一回転するようなら満点となる。
この「世紀時計」のはす向かいに、20代半ばの女性が大きな手荷物を横に置いて腰をかがめて座り、不安そうに遠くを見つめていた。察するに、知り合いのつてを頼りに貧しい農村から出稼ぎに来たのかと思われる。遠い農村から夜汽車に乗って朝がた天津駅に着き、出迎えの人を待っている様子だった。若い頃は可愛かったであろう童顔は、煤がかったように薄汚れ、髪はバサバサ、目だけ忙しくしばたたせて何かを探していた。一目みただけで農村での苦労がにじみでていたが、それでも内側から朴訥とした光を発していた。こうした出稼ぎ農工民が、中国の経済発展を下支えてきたわけです。
私はこの貧困層を象徴している出稼ぎ農民を、カメラで撮らえようとしたが気後れしてしまった。それでもと思い、歩きながらシャッターを押したが撮らえることができなかった。
シャッターを押しながらふとコスタリカで撮らえた紅花が脳裏をよぎった(11月29日付けブログ「雨に咲く花」)。この感覚は樹々生い茂る熱帯雨林の中で、光の空間を求めて渓流まで小枝をのばして見事に咲いた紅花を撮えた瞬間と同じではないかと思った。
これまで私の旅行好きは人間好きにあり、見知らぬ土地で、見知らぬ人との一期一会のふれあいにあると思ってきました。別に観光名所や博物館を見なくても、ただ街中をぶらぶら歩き、人の流れの中にいるだけで旅の楽しみが満たされてきた。
だが、どうやら私の旅は、そんな軽いものでなく、もう少し深いところにあったようです。無意識のうちに、紅花の奥に潜む目には見えない命の実相とのふれあい、人様の奥に潜む命の実相とのふれあいにあったようです。生命の瞬間を撮らえていたようです。
現象の世界から見れば、人と花とは違ったものですが、その被写体の奥に潜む実相から見れば、人の命も花の命も同じなわけです。澄んだ心で見なければ見えないものですが、「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ」(金子みすず)の世界になってしまう。
私の旅は、私の命と森羅万象の実相の命とのふれあいにあったようです。この気ずきはブータンの旅で触発されたものかわからないが、有り難いことです。先に日本を訪問したブータン国王はこの命を龍にたとえてました。
あるいは、私が大気汚染や公害を糾弾するのも、実相の命が活きのびようとする叫びなのかも知れない。
今日も「世紀時計」は、21世紀の時を刻んでいる。
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