2011年12月アーカイブ

行くぜ、東北

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DSCN3213.jpeg 今年の最後ブログを書いています。早いものでブログも1年になりました。来年は更に充実させて行こうと思っていますので、よろしくご指導のほどを。

 先日の日本滞在の折に感じて来たことですが、日本も東日本大震災の衝撃から、やっと心の平静を取り戻してきた印象を受けました。また、いつまで待っても政治などあてにならないという自覚からか、甘えることなく現実的な自助努力をはじめ、地に足をつけて歩きだした感じがしました。
 JR東日本の各駅に貼ってあった広報ポスター、「行くぜ、東北」、「いま行かなくて、いつ行くんだ」、「ぼくらは、まっすぐ、つながっている」という、力強いキャッチフレーズが、その感情をよく表していました。「行くぜ、東北」で、東北まで距離がありながも、絆として「ぼくらは、まっすぐ、つながっている」とし、「いま行かなくて、いつ行くんだ」という、強い意志を感じました。私はこのフレーズを、新年の挨拶に使わせてもらいました。東北の復興は、日本復活とリンクしていますので、来年も継続して東北復興をサポートして行きたいものです。
 さて2012年、早くも天下大乱の兆しが見え始めています。日本にとっても、政治、外交、経済クラッシュの問題で、厳しい時を迎えることが、もはや予想でなく現実になってきました。しかし、国内政治は低落する一方で、こうした危機に対応してゆく機能を失っています。このままの既成の与野党ですと、何度政権が交代しようと、この国を建て直すことができず、日本の将来が危いことがわかってきました。
 こうした政治の空白から政治改革を通して、まともな政策軸をもった政治勢力を創りだすことが急務になっています。来年はそうした政治改革ができるのか。祈望としては、東京、大阪を始めとした各地から復興の薄日が差し始め、国民が目覚めてきていることです。
 日本の改革、「いまやらなくて、いつやるのだ」。来年もたいへんの時でありますが、東北の復興は日本と「まっすぐ、つながっている」。「行くぜ、東北」、「やるぞ、日本」、「いまやらなくて、いつやるのだ」。このフレーズを、今年の結びとしました。
 どうぞみなさん、よいお年をお迎えください。
 よりよい2012年にして行きましょう。

世紀時計 ー命ー

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 新天津駅前の広場に、高さ40メートル、重さ170トンという「世紀時計」のモニュメントが建っている。中国最大級の「世紀時計」は、太陽と月が腕のように伸び、12星座をかたどった青銅の文字盤、中心に「天津」とその下に「2000」とあり、あたかも「21世紀は中国の世紀」と誇示するかのように時を刻んでいる。なんでも世界一を目ざすのは民族精神の活力であり、後進国家の虚勢でもあるが、なかなかよく出来た見事な時計塔である。これでもし太陽と月が地球の自転とともに一回転するようなら満点となる。
 この「世紀時計」のはす向かいに、20代半ばの女性が大きな手荷物を横に置いて腰をかがめて座り、不安そうに遠くを見つめていた。察するに、知り合いのつてを頼りに貧しい農村から出稼ぎに来たのかと思われる。遠い農村から夜汽車に乗って朝がた天津駅に着き、出迎えの人を待っている様子だった。若い頃は可愛かったであろう童顔は、煤がかったように薄汚れ、髪はバサバサ、目だけ忙しくしばたたせて何かを探していた。一目みただけで農村での苦労がにじみでていたが、それでも内側から朴訥とした光を発していた。こうした出稼ぎ農工民が、中国の経済発展を下支えてきたわけです。
 私はこの貧困層を象徴している出稼ぎ農民を、カメラで撮らえようとしたが気後れしてしまった。それでもと思い、歩きながらシャッターを押したが撮らえることができなかった。
 シャッターを押しながらふとコスタリカで撮らえた紅花が脳裏をよぎった(11月29日付けブログ「雨に咲く花」)。この感覚は樹々生い茂る熱帯雨林の中で、光の空間を求めて渓流まで小枝をのばして見事に咲いた紅花を撮えた瞬間と同じではないかと思った。
 これまで私の旅行好きは人間好きにあり、見知らぬ土地で、見知らぬ人との一期一会のふれあいにあると思ってきました。別に観光名所や博物館を見なくても、ただ街中をぶらぶら歩き、人の流れの中にいるだけで旅の楽しみが満たされてきた。
 だが、どうやら私の旅は、そんな軽いものでなく、もう少し深いところにあったようです。無意識のうちに、紅花の奥に潜む目には見えない命の実相とのふれあい、人様の奥に潜む命の実相とのふれあいにあったようです。
生命の瞬間を撮らえていたようです。
 現象の世界から見れば、人と花とは違ったものですが、その被写体の奥に潜む実相から見れば、人の命も花の命も同じなわけです。澄んだ心で見なければ見えないものですが、「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ」(金子みすず)の世界になってしまう。
 私の旅は、私の命と森羅万象の実相の命とのふれあいにあったようです。この気ずきはブータンの旅で触発されたものかわからないが、有り難いことです。先に日本を訪問したブータン国王はこの命を龍にたとえてました。

 あるいは、私が大気汚染や公害を糾弾するのも、実相の命が活きのびようとする叫びなのかも知れない。
 今日も「世紀時計」は、21世紀の時を刻んでいる。

狗不理

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DSCN3161.jpeg 今日もまた食べ物の話しで恐縮だが、なにせ私は中華料理に惹かれて中国語を勉強したくらいですからお許しのほど。
 天津を総本店とする150年の老舗「狗不理(ゴープリー)」料理店で、清朝の西太后も愛でたという包子(肉饅頭)を堪能してきた。「狗不理」とは「犬も構わない、犬も食わない」と言うおかしな屋号だが、中国政府が認定する「中国十大料理店」の一つなっている。調理法は無形文化財に指定され門外不出とのことだが、門を出て池袋西武百貨店8階に分店が進出している。
 「狗不理」の由来は清朝時代に、幼名「狗子」という(中国では子供が早く健康に育つよう動物の名前をつける習わしがある)、この青年が料理する包子が、とにかく美味いと評判になり客が行列をつくり商売繁盛となる。しかし「狗子」は包子売りに忙殺され、お客と話すことなく無愛想で、お構えなしだったことから、「包子は美味しいが、狗子はまったくお構え(不理)なしだ」から来ているという。
 ちなみに、私の姓「野口」の「口」は、有気と無気音の違いがあるが「狗」と同音になるため、友人から「野狗」で「野良犬」と揶揄されることもある。まぁ、無国籍の野良犬のような者でもあるが。
4goubuli_p.jpeg 包子は天津の名物料理、天津に来て「狗不理」で食べないことには土産話にならない。私もその評判を聞きつけての訪問。早速、ひとつの包子が一つの蒸篭に入った6種味のセットと松茸スープを注文した。価格は約1200円、当地としては高い食事。具材はそれぞれ、牛肉、豚肉、羊肉、蟹肉、三鮮、ニラ包子が出て来て、ひと噛みすると熱いスープが溢れだし芳ばしい香りが漂ってくる。一包一包ずつ違った味を楽しみながら一気食い。気がつけばガイドと二人で上の写真の如く蒸篭の塔。暖かいうちが美味しいとはいえ、もっとゆっくり味わって食べればよかった。
 天津甘栗の味は昔から変らないと思うが、包子は150年前の味と今では、おそらく違った味だったろう。まずサイズも違い塩気も違っていたと思う。味は時代の変遷とともに調味されながら引き継がれて行くもので、中国語では「味」のことを「味道」と、道がつきます。美味しいことを「味道好」(この味の道は好い)と言います。そして地道な「伝統的な味」を「道地」と称讃しています。中国料理の奥深い所です。

さよなら臭豆腐

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 またして私の大好物「臭豆腐」(チョウトウフ)のお話し。

 中国の都市計画で共通しているのは、街の中心部にある商店街の大通りが歩行街(歩行者天国)になっていること。いつも人の並で賑わい、観光客はそこに行けばいいのだから助かっている。歩行街はなかなかいいものです。
 天津にも大きな歩行街があり、その脇道に「遼寧路小吃街」という、両側に屋台が並んだ食べ物横丁がある。その通りの屋台の多くが臭豆腐を売っているのだからたまらない。さっそく路地に入ると、屋台の看板に「油炸臭豆腐」「麻辣臭豆腐」「台湾正宗臭豆腐」「香味臭豆腐」等、次々に並んでいるので、本当にここは歩行者天国。

 しかし、路地に入ってうまそうな臭豆腐を物色していても、全くもって臭いがない。臭いを抑えているはわかっていても、鼻を近ずけてもほとんど臭わない。これではあまりにひどい、なんたる事か。改めて店の看板を見ると「油炸豆腐」「麻辣豆腐」「台湾正宗豆腐」「香味豆腐」と、すべて「臭」の上にテープが貼られて伏せ字となっているではないか。観光当局から「臭豆腐」の販売が禁止されたのだろう。そして律儀な天津人は「臭」の上にテープを貼ったわけだ。このテープはもう剥がされることはないだろう。天津にはもう「臭豆腐」は無いということになる。
 私は臭豆腐のあの堪らない臭さの底に、中国文化の底力を嗅いできたので、これはかっての憎むべき文化大革命に匹敵するほどの出来事だった。中国庶民文化の弱体化で、何としても残念。まぁいい、別に食べなくても死ぬわけでもない、これで臭くない臭豆腐から、さよならしよう。私は金輪際、臭くない臭豆腐を食べないことに決めた。
 さよなら臭豆腐。1月に台湾で臭豆腐を食べてくることにする。


2020年

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 DSCN3211.jpeg(北京ー上海、新幹線マップ掲示板)

 折よく汚染物質を滞留した濃霧が消散した後に、北京--天津を旅してきた。
 今回の北京は天津に行くための経由地で、タクシーでドでかい飛行場からホテルへ、ホテルから新幹線駅の往復だけだったが、オリンピック後の北京の様変わりに感心してしまった。さすが中国、世界一の交通渋滞都市と言われながらも、よくここまでに仕上げたものだ。
 ただ、私は個人的に政治色の北京が好きになれないでいる。天安門に毛沢東の大きな肖像画と棺がある限り敬遠を決めこんでいます。それらが除去された暁に、ゆっくり観光しようと考えているのだが、私の目の黒いうちにそれが実現するか否か、我慢比べとなっている。
 そんなことで北京を素通りして新幹線駅に向い、ここでもまた駅のスケールの大きさに感心してしまった。中国の主要都市をつなぐ新幹線網が完成していた。北京--上海間を5時間半余、北京--瀋陽間を5時間でつなぎ、北京--天津間の120キロを33分でつないでいた。暴走と言われながらも、短期間によくここまで仕上げたものです。まさに鉄道は国家なりです。
 かくして北京から天津へ、中国の人は新幹線に乗っても、窓から景色を見ないということなので、実際にそうなのか視察してみた。午後2時の昼寝時という事もあり、多くの乗客は疲れた様子で寝ていた。また携帯電話している人、隣と話している人、友人とトランプしている人、一人の女性だけが外を見ていた。
 たぶん新幹線はあくまでも移動の手段という、中国人的な合理性から来ているのかも知れない。それに彼らは生きる事に精一杯で、景色を楽しんでいる心の余裕がないことにもある。活きる事のみに追われ、生活に情味というものがないのだと思う。のんびり景色など見ていたら、たちまち後から来る者に生活圏を脅かされてしまうという緊迫感のなかで生活しているからであろう。
 新幹線は一路順風、頭上に澄んだ青天が広がり、地上から20度くらいの層が大気汚染で霞がかっていた。天津市の郊外はやたらと工場の煙突が多く、濃霧になればそこから吹き出る煙だけで汚染されてしまいそうだ。そうした霞の中へ入り天津に到着。
 北京も天津市も人が住むには、大気汚染や各種の公害が限界にきていると思うのだが、2020年までに世界一の強大国をめざす中国は、生活環境を犠牲にしてでも、このまま都市開発を優先させて突っ走って行く方針のようだ。あと8年の我慢だが、それまで人がもつのか、都市がもつのか。人が住むために都市があるわけで、都市のために人が住んでいるのではないのだが、そんな屁理屈はそれまでお預けとなっている。
 それはともあれ、私は近代中国の数々の歴史舞台となった天津、古い中国と新しい中国が共存して情緒あふれる街並の散策を楽しんできた。天津は甘栗のごとくに味わい深かい街だった。
 しかし、飛行場へ向かう帰路のタクシーの中で、例によって私の目はチカチカし、喉がかすれ咳き込みが始まっていた。


濃霧注意報、、

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 6日の早朝から北京経由で天津に向かう予定だが、5日付けの中国気象台によると、北京、天津に濃霧の警戒レベルを引き上げを発表。なんと幸先のいい出発なのだろう。
 気象台によると、濃霧は5〜6日にかけて範囲を拡大し、北京市や天津市などで可視度は200メートルを下回り、7日から南下し消散するとい。濃霧のために高速道路をはじめ各種交通関係などに注意が促され、5日の北京空港は200便以上が欠航したという。私は7日の夜に着くから、まぁ大丈夫でしょう。

 北京市の環境保護局は「空気汚染は中程度であり、心臓病患者や呼吸器系疾患の患者は特に注意が必要」、健康な人でも野外活動は控えるように注意を促している(この中程度という発表の時は?)。いやはや毎度の事とは言え、何んかおだやかでないな。
 さらに天津市の空は4日から
濃霧に覆われ、なかなか消散しない濃霧が呼吸系統の患者を拡大させいて、天津市の総合病院などでは、診察を待つ患者の大半が呼吸器系統の症状を訴え、中でも高齢者や幼児が目立つといいます。当局はマスクの着用を励行し、外出からの帰宅時には顔や露出部分の肌は洗浄するよアドバイスしているとのこと。何にを好んでわざわざ生態実験に行くのか、ますますおだやかでない。そうやら長年の間楽しみにしていた、新幹線の窓から北京ー天津間の景色を見るのも濃霧がかかってきたようです。
 私は中国の都市に滞在すると3日目から喉がかすれて、目がチリチリと痛くなってくるので、できるだけ3日以上滞在しないようにしているが、今回もプロポリス常備薬を持って3泊滞在で正解だったようです。

 どんなに経済が発展しようと、宇宙にまでステーションを造ろうが、地上に人間が住めないような都市では、豊かさの意味がない。多くのタクシー運転手がおかしな咳をしている。彼らの咳にもっと耳を傾けよ。
 これは私の独断なのですが、将来ある日突然、多くの人が病院に殺到して患者ラッシュでごったかえすのではないかと思う。さらに穿った見方なのだけど、これって黙示録のうちに人口抑制対策なのかなと疑ってしまうことがある。なにせ14億と人口が多いから、、、

 嫌なら来るなと言われそうだが、それでも私は中国へ行く、、たぶん前世から見通しのきかない濃霧な関係なのだろう。そうとしか解釈できない。では出かけてきます

お爺さんあなたは〜♪

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RIMG0033.jpg 今回のコスタリカ旅行に「悪名の棺」ー 笹川良一伝 ー(工藤美代子著、幻冬社)400ページの分厚い本を持って出かけた。

 笹川良一氏は日本船舶振興会の会長、と言うより1970年代に「一休さん」の番組などのテレビ・コマーシャルで「世界は一家、人類みな兄弟」、「戸締まり用心、火の用心、一日一回よいことを、ニコニコニッコリ 日曜日」、「お父さん、お母さんを大切にしよう」に登場していた、あの目と耳の大きなこわそうなお爺さんです。   

 笹川氏は戦後のマスコミから、A級戦犯容疑、政治の黒幕、ギャンブラーの同元、悪の象徴と酷評され、誹謗中傷に晒され続けました。しかし、実像は全生涯にわたり、国ため、世のため、人のために政治活動、慈善活動、戦犯者の救援活動、ハンセン病救済活動を始めとした福祉事業に多大な貢献をしていた事はあまり知られていません。中村天風師の葬儀の時に、40数年来の友人代表として弔辞を読み上げているのですから、一角の人物であることは間違いないと思う。
 私は笹川氏ほど実像とマスコミの虚像との落差が大きい人を他に知りません。笹川氏はメディアの誹謗中傷を、「有名税」と受け流していたが、
人の評価は何を言ったかでなく、何をやったかで決まってくるものかと思う。「実を見てその樹を知る」です。「悪名の棺」の著者は、棺の蓋を開けて笹川氏の実像を掘り起こす作業をしており、実に内容のある著書となっています。

 平成7年、笹川氏96歳で亡くなられた後、日本船舶振興会は日本財団と名称を変更し、曾野綾子女史が無給の会長を引き継ぐことで悪いイメージを払拭させました。これは日本財団と曾野綾子女史双方の聡明な英断だったと思う。
 さて、前置きが長くなりましたが、笹川氏は「人生二百年」を提唱し、90歳を過ぎてからも年に十数回も海外出張を続け、「世界は一家」だから時差ボケなどないという豪傑ぶりでした。79歳になられても8人目か?の41歳年下の女性を射止め、乙女信仰的な恋情に落ち、逝かれる数年前まで現役だったといいます。御仁の心の熱さ、柔らかさと、精力絶倫ぶりに圧倒されてしまう。周りの者が御仁に近ずくとエネルギー熱で火傷してしまうような人でした。
 私が海外出張した先々で、笹川氏がここにも来られていたのかという慈善事業の足跡を目にすることがありました。サンパウロの日本人街に「世界人類が平和でありますように」、また、上海の龍華寺に「我們祈祷世界人類的平和」(上の写真)と書かれた四角い白い杭が打ち立てられていました。その他の国でもこの白い杭を目にしたのですが、書きとめておくか、写真に納めて置けばよかったのですが、見るだけで通り過ぎてしまい、今になってそれがどこに在っのたか、記憶も薄らいで惜しい事をしました。
 もし、コスタリカにでもあればと思い、「悪名の棺」の本を持参して出かけましたが、今回は空振りに終わってしまった。それにしても明治生まれには、すごいお爺さんがいたもんです。

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