千手観音(せんじゅかんのん)は、文字通り千の手と千の眼をもつ観音様です。十一の面と四十二臂を持ち、二本は合掌し残り40本の臂がX25=千の世界、天上界から地獄までの世界を、いかなる衆生をもみな救済するという、広大な慈悲と強い力をもつ観音様です。
だったらなぜ東日本大震災時に救済してくれなかったのか。千の手でも手が回らなかったのか、恨めしく思うのだが、仏様には仏様の都合もあり、私たちの計り知れない配慮があってのことなのだろう。
しかし、大震災後のニュースを見ますと、たしかに千の手がそれぞれのおかれた世界で活躍しています。こうした復興に一生懸命がんばられている人たちを見ますと千手観音に思えてきます。
私の身の周りでも千手観音が重なってきています。
7月のブータン旅行の時に、上の写真にある密教の法具「金剛杵(こんごうしょ)」に、なんとなく惹かれて買ってきました。千手観音が右手にもつ武器ですが、魔を打ち砕き、人間の困難と煩悩をふり払う智慧を表す法具として用いられています。空海が祈祷の時に必ず使用した法具です。
9月には上海の水郷「周荘」で、新しい無垢な千手観音を拝観しました。日本の仏像を見慣れているため、いつもですとインドや中国の仏像の顏に違和感を覚えるのですが、周荘の千手観音は実に均整のとれた温雅ないい表情をしていました。制作者は誰かと聞いたが案内人も知らないとのこと(もしかしてあの表情は日本からかも、、)。左横の解説に目をやると、千手観音は十二支の子年と三月生まれのお守り本尊とありました。私はネズミ年の三月生まれですので、二重のお守り本尊ということになり、気前よくお布施は弾むことになった。
10月2日は、前のブログ「恐竜バブル」で紹介した、岡本直哲さんから千手観音の制作ができ上がったとメールをいただき拝観しました。細部までよく描いていい作品になっています(まだ未発表なので掲載は遠慮させてもらいました)。この千手観音は左頬に一粒の泪を画いています。慈悲の泪と思うが「画龍一点」これはいただけない。観音が哭いたら私たちはどうすればいいのだ。でも、確かに金箔の剥げ落ちた黒肌の頬は涙に見えなくもない。それよりも岡本さんがなんでいま千手観音を描こうとしたのか、そのモチーフに興味が湧きます。やはり東日本大震災が引きずっているのだろうか。
さて、私は明日からまた上海郊外の水郷「西塘(シータン)」へ出かけます。水郷一帯はまだ古き中国の名残があります。ここでもまた千手観音に遭えるような気がしています。
そして、来年は伊勢神宮を参拝の後、京都の三十三間堂の千体千手観音を拝観することにしました。なにせ東北地方の復興ため、ここで千手観音にがんばっていただけねばとの思いからです。
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