だいいち彼らは幸福という概念を知っているのだろうか? 幸福という意識を持っているのだろうか? 本音の部分でそんな面倒な理屈はどうでもいいと思ってないだろうか?
ブータンを近代の物差しでみれば、世界でも最貧国グループに入り、ヒマラヤ秘境の山肌にはいつくばるように住み、識字率も約50%、平均寿命も63歳と短いものです。確かに子供は純朴で可愛いですが、黒く焼けた老人の顏の皺には生活の苦労が刻まれています。彼らはそれを苦労と思っていないかも知れないが、私から見るととても幸せな顏には思えない。私はみんな貧しければ心穏やかに暮らせるという事に同意しません。それは今日の日本経済発展を否定することにもつながるからです。それに私はこの地に一生を過ごすことを幸福とは思わない。
ブータンが世界人類に向けた「国民総幸福量」の提唱は、近代化の経済レースには参加しないが、幸福レースに参加するという意思表示となります。そのこと自体には意義を認めるが、結局それは幸福量という近代の物差しでしかない。あたかもサッカー・ワールドカップの決勝戦と同時並行して行われる、世界ランキング202位のブータン・チームの世界最下位決定戦のようなものです。彼らは幸福量という物差しをもって国際社会に参加したことになります。幸福量とは政治思想の方便であっても、仏教思想の方便ではないわけです。ここに仏教王国ブータンのジレンマと落とし穴があるかと思います。
所詮、幸福とは主観的に感じるものでして、他国と比べるものでありません。もし、幸福を量で測るとなると他国との比較が始まり、そこに格差の不満も生じてきます。幸福の条件が目的化したら、そこから金銭欲も、携帯電話、テレビ、車へと欲もでてきます。
かつて日本が西洋列強から自国の独立を守るために、近代化に武装して西洋近代に対峙したように、いまブータンは「ハピネス(幸福)」という近代思想で武装して、近代化に対峙しています。本来のブータンは「ハピネス」という概念とは違った境地に在るのですが、世界に向けて「ハピネス」という、借り物の概念をもってしか自国の精神を語れないところに、ブータンのジレンマがあります。これではブータンが可哀想になってきます。
ブータンから学ぶ精神は、世俗で言い古された「ハピネス」などという薄っぺらな軽いものでなく、もっともっと奥深いものだと思います。では、如何なる言葉でそれを表現したらよいのか、私はブータンの旅を続けながら、そして今も旅の余韻の中でその言葉を、ず〜とさがし続けているのですが、いまだに良い表現が見つからずにいます。(続)
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