リスボン大震災

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 5月2日から8日までポルトガルへ行ってきました。
 2月に予約した旅行とはいえ、あいにく東日本大震災の直後ということで、何を見ても1755年に発生したリスボン大地震に思いが行ってしまい、いまいち浮かぬ旅になってしまった。その浮かぬ心にファドの怨歌が重く響いてきた。
 リスボン大地震はマグニチュードM8.7〜9と推定され、揺れが3分半〜6分ほど続き、街の中心部に5m幅の地割れができて建物の85%が崩れ落ちたといわれています。さらに地震から約40分後に15m級の大津波がテージョ川を2度も遡り、
港や市街地と1万の人をのみこみました。その後、街中に火の手が上がり5日間にわたりリスボンを壊滅的に焼き尽くし、6万2千人の犠牲者をだしました。
 震災の11月1日はカソリックの祭日の聖なる朝で、市民が教会でミサの祈りを捧げている時でしたから、天災か天罰かの神学論争にまで発展し、西洋の啓蒙思想家に大きな影響を与えました。250年前の大震災ですが、震度といい、津波の高さといい、天罰論争といい、どこか東日本大震災と重なり合うものを感じてしまいます。
 今日でも街角や教会に廃墟がメモリアルのように存在し、市を中心にして下町と高台が交差する位置に高い塔が建ち、その上から街並を見守るかのように銅像が立っています。この銅像の主こそリスボン再建に大きく貢献したポンバル
宰相で、関東大震災後の後藤新平復興院総裁に匹敵します。
 
ポンバル宰相は震災後すぐに建築家を結集し、完璧に秩序だった街の再建に着手しました。1年以内にリスボンからガレキが消え、いたる所が建設現場となり、大きな広場と直線状の広い街路の新しいリスボンを再生させました。当時こんな広い通りが必要なのかと揶揄する者もいましたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答え、この辺りも大風呂敷の後藤新平と共通します。
(上記の写真に見られる様に、高台の手前が震災の廃墟と大きな広場、中央がポンバル銅像、遠方の下町の奧にテージョ川が望めます)
 
当時に建てられたポンバル様式の建築は世界最初の耐震設計となり、その耐震方針は今日にも受け継がれています。街並には高いビルがなく(シェラトンホテルがアホ高く見えるだけ)、高台に在るデパートやホテルは5〜6階建てになっていて、その低い分だけ地下を5階まで掘り下げて利用しています。
 窓の無い部屋の良し悪しは論外にしても、リスボンの再建から学ぶものがたくさんあるかと思う。東日本の再建に復興理念をもったポンバルいや、後藤新平の登場が至急となっています。

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このページは、三休が2011年5月12日 03:43に書いた記事です。

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