東日本大震災でみせた日本国民の冷静な態度、秩序正しさと忍耐力、そして利他的精神に、世界中の人々が敬服と称讃と驚きをもって見守りました。不幸な出来事でありましたが、海外に住む日本人にとり、この民度の高さは大きな誇りになりました。
なかでも、かけがいのない肉身や愛する夫を亡くした被災者が、テレビのマイクを前にして、取り乱すことなく悲しみを内に秘め、感情を抑制しながら静かに話す姿に、思わず「そこまで我慢しなくてもいいよ」と、叫びたくなりました。
外国の人には愛する人を亡くしながらどうしてあんなに冷静でいられるのか不思議に映りました。ですから多くの人から、「何故あれはどに冷静なのか?」という質問を受けました。
韓国の人や中国人は、「もし我々なら大声で哭き叫んで取り乱すだろう」と言います。何事にも理詰めでないと納得しないドイツ人は、この冷静さは彼らがまだ肉身の死を知らされていないからだと深読みしました。アメリカ人はなんと感情表現が不器用な民族なのだろうと理解できずにいます。
私はそうした彼らからの疑問に「いや被災者も全身で哭いています。あの様なけなげな振舞いは、自分の悲しみや大事よりも、周囲を悲しませ、不快な感情を与えまいとする、思慮深い抑制された精神態度なのです」と説明し、芥川龍之介の名作「はんけち(手巾)」の話を添えています;
ある学生が病死して、その母親が息子の死を恩師宅に告げ行きます。母親は突然の訪問を謝してから、淡々と息子の死を語り、眼には涙もなく、声も平生の通りで、その上、口角には微笑みさえ浮かんでいるのを見て、アメリカ帰りの教授は不思議に感じ、はじめはこの母親は息子の死で気がふれたのかと思いました。
しかし、ふとテーブルの下に眼をやると、膝の上に白いハンカチ持った母親の両手が見え、その手が激しくふるえ、悲しみの激動を強いて抑えようとするせいか、ハンカチを両手ではち切れんばかりに堅く握ってふるえていることに気がつきました。顔でこそ微笑んでいましたが、全身で泣いていたのです。
被災者の深い悲しみを内に秘めたけなげな態度は、外国の人には理解を越えるものであるかも知れません。しかし、もし被災者が心の奥に秘めた悲しみを、塚をも動かす、激しくわびしい秋風に託して表現したなら、きっと外国人の心を動かすことだろう。
奥の細道で芭蕉も哭いた。被災者も哭いていいのだ。
塚も動け わが泣く声は 秋の風 (芭蕉)
コメントする