東日本大震災から2週間後に日本へ向かった。
震災前のJAL5便の予約は満席だったが、65%ほどのキャンセルで空席が目立つた。「君子危うきに近寄らず」で聡明な選択なのでしょう。読書する乗客の本の題名を覗くと、司馬遼太郎の「この国のかたち」を始め、歴史文化の硬派な本を読んでいた。乗客もそれぞれ思い詰めるものがあってのことだろう。
日本の上空に近かずき、いつもなら北海道から太平洋海岸沿いを南下して、福島原発所を右下に見ながら成田空港に着陸するのだが、今回は青森から日本列島のほぼ中央上空を飛び、白煙の立つ福島原発を左下遠方に眺めながら、千葉沖から太平洋上に入って迂回する飛行だった。
こうした飛行コースでしたので、海岸沿いの被災地が内陸部のどの辺りまで続き、どこから被災影響が減少しているか鳥瞰できた。被災地域の情況から、この被災地はこの内陸部で救援体制ができ、あの被災地域はあの内部地域で援護対応できるということが一目瞭然に見てとれた。
後智慧になってしまうが、カン首相は初動に福島原発だけに飛ばず、先ず東北全域を飛んで被災地の現況を掌握すべきだった。そうして即断で2人の指揮官を任命し、1人を攻めの被災地復興の指揮官、1人を守りの原発問題処理の指揮官を、鷹の目で見て、獅子の心臓で決意すべきでした。さすれば、国民から「カン蹴り」されずにすんだものですが、所詮、あの目で、あの心では、無理な期待だったのかと思う。
飛行はさらに九十九里浜沖を出て太平洋上空から着陸体制に入り、海面を見下ろすと、晴れた空だというのに、海底からの余震に震えてか、これまでに見たこともない、どす黒い不気味な毒蛇肌の海面だった。
着陸後、閑散とした成田空港の入管に向かうと、節電対策で通路が薄暗く、入管所のBは消灯で閉鎖されていて、入管所Aから入国となった。
行き先々の街全体が暗く、人出も少なく、自粛ブームのお見舞い滞在になってしまった。でも、こうした薄暗さは、今までが明る過ぎたからでもあり、慣れてしまえばこれはこれで落ち着いたいい雰囲気でもあります。思えば我が家はすでに4年前から節電対策でこの薄暗さでした。
復路の途上、上野公園入り口の満開の桜に話しかけ、「やはり今年も咲いたね、でも今年は見ずに行くよ。ごめん」と、自粛して通り過ぎ、成田からアメリカへ戻ってきました。
大きな余震確立が10%に減少した3週間後の太平洋沿岸は、いつもと同じ穏やかな青い海面に戻っていました。私たちの余震(自粛)も「四十九日」にあたる「昭和の日」までにして、そこから復興再建の長期戦に立ち向かうことにしたいものです。
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