醤油味の中華そばには昭和の哀愁がただよう。
恋にやつれた「男はつらいよ」の寅さんが、チャルメラの屋台でラーメンを注文し、「おじちゃん、鳴門はいらないよ。目が回るから、、」というシーンに中華そばがよく似合う。
私はラーメンが好きなのですが、どんなに美味しく食べても、いや美味しければなおさら、どんぶりの底に満たされぬものが残ってしまう。美味しくても一杯だけで終わってしまう虚しさからだと思う。
さりとてラーメンライスではお粗末すぎて、空腹を埋めるために食べた貧しき学生時代が思い浮かんできて、スープが塩辛くなってしまう。中国の人はラーメンをおかずにライスを食べている日本の人を見ると、食の貧しさ感じるという。
そんな一期一会のラーメンだからこそ、かえって思い入れが深くなるのかも知れない。
たかが一杯のラーメンに、あれほど真剣に、一生懸命に味を追求する愚直さが分からず、たかが650円のラーメンに何であの様なばか騒ぎするのかと理解に苦しむだろうと思う。さらには、そのラーメンの麵と具と汁にこだわるお客、店のカウンターに座って食べ方まで開陳する老人客は奇怪に映るし、このストーリーが実話に近いことを知るに至って、驚いてのけ反ってしまうことだろう。
魯迅はこの勤勉さ、こだわりの精神を、中国が日本から学ぶべきものだと言っていますが、一般の中国人にしたら、たかが一杯のラーメンに採算の合わないこだわりは愚直に思えて学ぼうとはしない。店主もお客の方も650円のラーメンの味はだいたいこの程度のものと、双方に実利的な妥協味のソロバンが働いて折り合いがつく。「差不多、吃飽就好了(だいたいこんなもんで、お腹いっぱいになればそれでいい)」。たかが一杯のラーメンに一生を費やす愚直さなどはとうてい理解し難いものである。
ですから麵の本場、杭州の老舗「吾唯味足」で食べたタン麺も、老舗の割りには看板ほどに足る味でなく、「百年如一日」まぁまぁの妥協味のままだった。もう一度あそこに行って食べ歩きする気にはならない。
一方の日本は究極の味へのこだわりを原動力にして、明治の黎明期の「南京そば」から昭和初期に「支那そば」へ定着。戦後は「中華そば」をさらに発展多様化させて、平成の美味しい「日本ラーメン」へと進化していきました。店主の味へのこだわりと、その味を求めて食べ歩きをするお客のこだわりによって日本のラーメンが育ってきたわけです。
では、日本化したラーメンは、日本だけの特異な味としてガラパゴス化したかと言えば、とんでもありません。今では日本のラーメンは、本場帰りして中国でもブームになっていますし、香港、台湾、東南アジアで普及しています。そればかりでなく、アメリカ、ヨーロッパでも、当地の人が箸をうまく使いこなして、ズルズルーと音をたてて食べています。
また、その進化と同時並行して育ってきたインスタントラーメンは、宇宙にまで出前しています。日本のラーメンはガラパゴス化を通して、世界の市民権を得た食文化となっています。
一杯のラーメンに対してさえ、この愚直なまでのこだわり精神、職人気質が、日本を世界でも有数な「美食の国」にしたのは当然の結果であるといえます。現在ミッシュランの三星レストランは、世界に90店あるようですが、その内の26店が日本のレストランだといいますから、まさに「美食在日本」です。愚直なこだわりが文化を創造します。
たかが一期のラーメン、されど一会のラーメンです。
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