3月の締めは上毛かるた「ゆかりは古し貫前神社」に帰国報告して来ました。アメリカのガレージに貫前神社の「無事かえる」を、ず〜と置いていました。
それから忠霊碑の一峰公園で桜を散策。すでに散りはじめた桜華が大東亜戦争の戦死者を偲んでいるが如くでした。
「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)合掌。
紫花に囲まれた花絨毯も素敵な光景でした。
その後に大塩湖の千本桜へと桜ずくしの3月でした。
明日から台湾に向かいます。台中の名勝地「日月潭」近くの山の中腹に、日本の桜木を植樹をしてきます。
桜狩り きとくや日々に 五里六里 (芭蕉)
今日は小幡の甘楽公園の散歩路に桜狩り。
今日午後1時、春雨の晴れ間を見計らい城山の桜の園に登ってきた。
かつては一気に駆け登った城山(約200m)だが、今回は中途に3回ほど立ち止まって小休止する始末でした。 桜が満開なのでたくさんの人がいるかと思いきや、頂上に誰もおらず私一人の贅沢な花見となった。
せっかくなので、城山から遠望できる妙義山と稲含山を桜花を添えて撮りました。
ふるさとはこうして連峰に囲まれた関東平野の最奥地に位置した富んだ岡になります。
そしてこの写真を、私自身への誕生プレゼントとしました。
今日から高貴高霊。
新築の完成は本来なら今日でしたが、5月の下旬になりました。まぁ、日々完成に近づくのを見るのも楽しいものです。それに体の細胞が新細胞に入れ変わるのも3ヶ月というので、2月に帰国してから5月でちょうど家も体も新陳代謝です。
大きく変わった事は、私の交通手段が車から、アシスト自転車の変わったことです。9名甥と姪が帰国祝いにプレゼントしてくれました。これからはこれを愛車とします。
ふるさとは 自転車でも間に合う ほどよい町です。
今日はこれから2人の姉と親友夫婦とで四万温泉になっています。
上毛かるた『世のちり洗う四万温泉』。さてと、高貴高霊の旅立ちです。
私が小さい頃によく登っていた城山が、かつては頂上だけに桜が咲いただけなのに、いつの間に山全体が桜の園となっていた。
明日から来週にかけて春雨模様ということなので、午後5時に麓の山下橋まで散歩して桜の園を撮って来ました。
毎年友人からメールでこの景観を送ってもらいましたが、私自身もついに当地で花見ができました。来週中に晴れ間が見えたら桜の園の中に入って行こうと思っている。
さまざまのこと思い出す桜かな
「暑さ寒さも彼岸まで」というが、春彼岸を境に暖かくなり、秋彼岸を境に寒さに向うという歳時記です。春には桜と牡丹餅、秋には彼岸花とお萩と生活の叡智がうかがえる。
春彼岸に亡き妻との悲願のデイトです。甥、姪、孫、玄孫と4世代で祖先の墓参り、やがては玄孫が墓守することになる。やはりこの地に納骨をしてよかった。
伊香保温泉の帰りに、高崎上毛野(かみつけの)里に行き5世紀末から6世紀前半に栄えた豪族の古墳とたくさんの埴輪を見学。
この地に朝鮮半島から馬を連れてやってきた渡来人の村の出土品や墓も発見され、博物館に1500年前の群馬の世界が再現されていた。
私の祖先もそうした世界の中で、活きて生き抜いて来たことになる。
今日は帰国して丸1ヶ月になりました。なんかもう6ヶ月くらい過ごした感じです。
今日から電動アシスト自転車の練習を始めました。気分は青春時代に戻った感じですが、後ろの荷台に胸をときめかし横になって座っているガールフレンドがいませんでした。
昨日は友人の招きで榛名山の麓、伊香保温泉でリラックスさせてもらいました。アメリカの多くの友人に帰国したらまず温泉とすすめられたが、特に温泉に行かなくも自宅の風呂でリラックスできると思っていましたが、いざ湯船につかると体の芯まで癒されることを体感しました。ゆったりのリラックス度が違うのですね。
「湯上がりの気持ちを欲しや常日頃」
温泉に向かう途中に前橋市を経由して岩神神社の巨石を見学しました。
2万4千年前に浅間山の噴火による山体崩壊で発生した泥流で運ばれたと推測され、直線距離48キロを吾妻川の流路に沿って土砂と共に運ばれてきたというものでした。地上部分だけでも高さ9.47m、地下8.5m、周囲60m、重量2100トンという巨石で、岩神神社の御神体として祀られています。
上毛かるたの『あ』、「浅間のいたずら鬼の押しだし」。群馬にもスケールの大きい太古遺石があるのですね。これには感動しました。
今日は高崎少林山だるま禅寺に初めて行ってきました。縁起だるまの発祥の寺です。
帰省の折にいつもこの前の車道を通っているのだが、いつか、いつか参拝と思いながら、その都度ご無沙汰していました。今日は息切れしながら階段153段を登っての参拝でした。
この寺の境内に在る「洗心亭」に、ナチスドイツを追われた亡命者、世界に日本文化の美を紹介した著名な建築家ブルーノ・タウトが、2年3ヶ月過ごしたことは知りませんでした。これは私の不覚でした。
タウトは桂離宮を訪れ「泣きたくなるほど美しい」と深い感銘を受け、伊勢神宮では自然と調和した簡潔なそして厳しい形式に共感しています。代表的な著書に「日本美の再発見」「日本文化の私観」があります。
また、こんな感想を日記に残しています;「私たちが山下の小径を歩いていると、いつものように大勢の村童たちが私たちのあとからついて来たが、やがて私たちの歩く先に立って両側の潅木の枝を左右に押さえつけ枝の先が私たちに触れないようにしてくれた。外人を見ようとする好奇心はあっても、実に細かい心遣いをするものだ。みな貧しい? それも極めて貧しい子供たちなのに!やはり日本なのだ」(昭和10年3月24日)
日本を離れトルコに向かう壮瞥の時に;「日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」と語っていました。
トルコで1937年12月に脳溢血のため逝去し、遺体はトルコの墓地に埋葬されましたが、タウトの遺志を果たすため、翌年9月に妻エリカがデスマスクを少林山に納めました。そしてタウトがわが故郷とした洗心亭に「ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)の記念碑が立っています。
伊勢から帰るとアパートの郵便受けに親鸞の「歎異抄に学ぶ」のチラシが入っていた。
「鎌倉時代から伝わる永遠の名著そこには最も知りたい『なぜ生きる』の答えが明示されています」とあった。
どうやら宗教団体でなく純に「歎異抄に学ぶ愛好会」のようでしたので、講演会に行って来ました。
講演は著書の内容にそって進められたが「歎異抄」を、これほど真摯に読まれている人がいることに感動しました。
著者は「歎異抄」を深く修得実践し、それを実にやさしく噛み砕いて説かれ「南無阿弥陀仏」の六文字で、現世も死後も救われるとありましたが、講演ではそこまで言及しませんでした。後はあなた任せという控えめの余韻が心地よいものでした。
私の母も毎朝仏壇に向かい、私の外地での無謬息災を願い「南無阿弥陀仏」を、念じてくれていましたので、講演を聴きながら母の合掌する姿を偲んでいました。
「南無阿弥陀仏」合掌
お伊勢参りは二見浦から始めました。本「宇宙の心」サイトのトップの写真です。
27年前に二見浦駅を降り改札口を出ると、構内の左側に貼ってあった写真です。「海、夫婦岩の中心はるか遠方に富士山、その頂上から昇る朝陽」、写真を見て私の目は釘付けになってしまいました。この出来過ぎはモンタージュかと思い即座に駅員にたずねると、そのままの本物の写真でした。私と朝陽との遭遇でした。
この写真をなんとか手に入らないものかと聞くと、二見浦観光協会に問い合わせしてくれとのことでした。
さっそく問い合わせると特別に譲ってくれました。以来アメリカの家に飾ってきた宝でした。
この時の感動が、本サイトのトップの掲載になりました。
今回はまだ駅構内に飾ってあるかとの確認でした。日本の原風景と思うだが、惜しいことにありませんでした。そして、今は無人駅となっていました。